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ブログに問われる書く技術、話す技術小寺信良(2/3 ページ)

» 2005年06月13日 08時57分 公開
[小寺信良,ITmedia]

言文は一致するか

 われわれ日本人は、方言こそあるものの、基本的に単一の言語を使っている。さらに世界に名だたる文盲率の低さを誇っている。したがってわれわれは、国内どこに行っても自由に話して意志を通わせ、看板を読み、買い物をすることができる。そして日本人である以上、日本語を使うことには不自由しないと思っている。

 だが実際には、会話を行なって意思の疎通ができることと、文章を書くことは同じではない。

 例えば会話では、相手の理解度を確認しながら少しずつ話が進んでいく。大人であれば「〜ですね」と同意を求める話し方は普通に行なわれている。「ここのところ暑い日が続きますね」という言葉は、「私はここのところ暑い日が続くと感じているのですが、あなたもそう思いませんか?」というニュアンスを含んでいる。若年、青年層においては、「ね」という同意を求める言葉が「〜ていうかぁ、もう夏?」みたいな語尾上げに変化しているものの、基本的には同じ構造である。

 一方文章では、相手のリアクションを確かめながら話を進めていくことはできない。そう言う意味では音楽や映画のように、一方向にしか進むことができない表現方法なのである。

 また日本語の会話では、主語・主格の省略がたびたび行なわれるため、利き手は話しのニュアンスでそれを類推しながら、理解していく必要がある。例えば「青になったので通りを渡った」と言っても通じるが、実際には「信号が青になったので、私は通りを渡った」のである。主語と主格の2つがなくても、なんとなく通じてしまう。

 それで思い出したが、古くは芭蕉の句ですごいのがある。

 「田一枚植えて立ち去る柳かな」

 これは芭蕉が田んぼ一枚分の稲を植えて立ち去ったわけではない。「農民が田一枚植え終わるのを見届けて、芭蕉が休んでいた柳の元から立ち去った」のである。これなどは、一文の中で主語が違う人に変わっているにもかかわらず、両方とも省略してしまっている。このあたりが日本語の主語・主格省略の限界点だろう。

 日本語というのは、省略を美徳とするところがある。はっきり言い切らず、あとは相手に察知して欲しいわけである。話をしていて、話しやすい人と話がかみ合わない人が居ると思うが、聞き上手な人は総じて「勘がいい」のである。これは受け手側の「勘」が良くなければ、意味が通じなくなってしまう危うさを持っている。

 そしてこの日本語特有の脆弱性を悪用する例が、「挙げ足を取る」という行為だ。

 先月末、千葉市の朝日新聞販売店員が特定商取引法違反で逮捕された事件も、この揚げ足取りである。「新聞はいらない」という意味で「いいです」と言ったものを、契約に承諾する意味に解釈したことが発端となっている。

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