金の切れ目が縁の切れ目感動のイルカ(2/2 ページ)

» 2009年03月18日 11時00分 公開
[森川滋之,ITmedia]
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 オレは、なんでこんな仕事を5年も続けていたんだろう。浩は、ふと不思議になった。販売会社のトップ営業マンなんて、浩の自己イメージとは大きくかけ離れている。高校時代の悪友たちは誰一人信じないだろう。

 ああ、あのときだ。あの先輩が、オレに営業の楽しさを教えてくれたんだったっけ。

 浩の回想は、5年前、1989年にさかのぼった。20歳の頃、バブル真っ盛り。日本中が永遠の好景気を信じていた頃だ。

 浩が上京したのは、さらにその2年前、1987年だった。気が付いたら好景気が始まっていたという感じの頃だ。浩は、高校を出て上京し、専門学校に入ったのだったが、そこを3日で止めてしまった。その後、肉体労働のバイトを転々としていた浩は、根っからマジメな性格だったこともあり、それなりに稼いでいた。友達がいなかったので、他の若者が遊ぶ時間も働いていたからだ。楽しみもないので、バイトながらもいろいろと工夫していたら、与えられていた目標額を上回るようになり、給料以外の手当てももらえるようになった。

 そのうち、だんだんと将来が不安になってきた。こんな仕事のやり方が歳を取ってからも続くとは思えなかった。人と知り合う機会もないので、結婚もできない。

 そのときに偶然に見たのが、今の会社の求人広告だった。展示会でパンフレットを配ったり、商品の説明をしたりする仕事だと書いてあった。給料はそのときのバイトよりも安かったが、この程度の仕事内容ならそんなものだろうと思った。何かのきっかけになるかもしれないと面接に出かけた。

 面接は自信がなかったが、先方も人手が足らなかったのだろう。すぐに採用された。そして、研修と称して最初にやらされた仕事が、テレアポ取りだった。求人広告にウソが書いてあったわけではない。パンフレットの配布も商品説明も営業の重要な業務である。単に肝心なことが書いてなかっただけだ。

 その肝心なこととは、求めていた職種はフルコミッションの営業であり、アポ取りから契約、その後のフォローまで、すべて自分でやらなければいけないということだった。

 しかし、浩がだまされたと憤ったとしても誰も責められないだろう。人手不足のときの求人なんてこんなものだというのは、もっとスレている人の言い分であり、上京して2年の20歳の青年に対して言って聞かすことではあるまい。

 その証拠にだまされたと思ったのは、実は浩だけではなかった。ほかにも10人ぐらいの採用者がいて、多くは浩より年上だった。その連中が「やべえよ、これ営業じゃん。テレアポだもん」と口々に騒いでいた。浩は、けっこう余裕で「へえ、そうなんだ」と思っていただけだった。もっとも、浩は英語が苦手でフルコミッションの意味が分かっていなかったということもある。

 研修が終わったら、同時に採用された連中がバタバタと辞めていった。浩は、彼らを見ていてみっともないと思った。どうせ辞めるなら惜しまれて辞めてやると浩は誓った。見栄っ張りな性格なのだ。

 1週間ぐらいで無謀な誓いをしたと思った。その間、アポがまったく取れなかったからだ。アポ取りのやり方が下手だったということもある。しかし、もっと大きな理由は、自分に営業の電話がかかってきても嫌なのに、人はもっと嫌だろうと思ってしまったことだ。浩は多くの時間を電話をかけたフリに使っていたのだった。

著者紹介 森川滋之(もりかわ・しげゆき)

 ITブレークスルー代表取締役。1987年から2004年まで、大手システムインテグレーターにてSE、SEマネージャーを経験。20以上のプロジェクトのプロジェクトリーダー、マネージャーを歴任。最後の1年半は営業企画部でマーケティングや社内SFAの導入を経験。2004年転職し、PMツールの専門会社で営業を経験。2005年独立し、複数のユーザー企業でのITコンサルタントを歴任する。

 奇跡の無名人シリーズ「震えるひざを押さえつけ」「大口兄弟の伝説」の主人公のモデルである吉見範一氏と知り合ってからは、「多くの会社に虐げられている営業マンを救いたい」という彼のミッションに共鳴し、彼のセミナーのプロデュースも手がけるようになる。

 現在は、セミナーと執筆を主な仕事とし、すべてのビジネスパーソンが肩肘張らずに生きていける精神的に幸福な世の中の実現に貢献することを目指している。


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