浩のチームの売り上げは徐々に落ちていった。信頼していた部下ともケンカする始末。そんな中、独立した元上司からこう言われた。「おまえは愚直なんだ。そして、営業でトップになるには、愚直さこそが大事なんだ」――。
ビジネス小説「奇跡の無名人」シリーズ第3弾「感動のイルカ」は、アクティブトランスポートの代表取締役兼CEOである猪股浩行さんの実話に基づく物語である。
主人公の猪狩浩(いかり・ひろし)は、上司の三善啓太(みよし・けいた)のアドバイスで営業として成功を収め始める。ついには15人の部下を持つようになったのだ。だが部下が増えると管理が行き届かなくなる。業績が好調の時は気にならなかった管理不足も、不況になるにつれ明らかになっていった。
兆候はすでにあった。浩のチームの売り上げは徐々に落ちていった。ほかのチームも一緒に落ちていたので、相変わらずトップのチームを率いている浩が責められることはなかったが、浩はかなり焦っていた。
「何やってんだ、山口。お前ちゃんと見てるのか?」
「何をです?」
「お前のところの桧山が強引な売り込みをしてるってクレームが来てたぞ」
「その件ですか。だったら、猪狩さんが直(ちょく)で見てる桐山もですよ」
「何だと! まず、てめえから反省しろ。だいたいお前自身、どんだけ売ってるんだ!」
山口始は浩が信頼しているはずのいわば片腕である。朝礼でリーダークラス2人がこんな喧嘩をしているようでは終わりだと思いながらも、どうしても声が荒くなってしまう。(桐山もだったのか……)気づいてなかった自分への腹立ちを始にぶつけてもしょうがないと分かっているのに。
こんなときに三善さんならどうしただろうと思うが、その三善啓太は先月独立して自分の会社を興したのだった。
啓太の送別会の後、浩は啓太に飲みに誘われた。ジャズのスタンダードが流れている静かな酒場だった。訳知り顔の無口なバーテンダーが2人をカウンターの隅の席に招いた。
「三善さん、どうしてオレにも来いって言ってくれないんですか?」
「バカ野郎、おまえぐらいのトップ営業に給料を払えるには、まだ時間がかかるんだ」
啓太は小さな貿易会社を始めることにしたのだった。社員は、事務のパートタイマーが1人だけ。
「そうじゃない。オレが逆らってばかりだから、いやになったんだ」
「だったら、なんでこんな風に2人で飲もうなんて誘うんだ?」
「オレが心配だからですか?」
「いや、おまえのことなんか心配してないよ」
「なんですか、それ?」。浩は不満にあふれた声で言った。
「オレは、おまえは大丈夫だと思っている」
「何を根拠に?」
「オレなあ、おまえと同期入社の売れてない連中全員に飲みに行こうって声をかけたんだ」
そうだったのか。
「とりあえずみんなついてきたさ。でも、結局オレの言うことを本当にやったのは、おまえだけだったんだ」
浩は啓太に言われたことを思い出していた。お客を好きになれ。口ベタの天分を活かして営業をやれ。
「おまえは愚直なんだ。そして、営業の世界でトップになるには、愚直さこそが大事なんだ」
ぐちょく、ぐちょく……。浩の耳の中で、「愚直」という言葉がリフレインした。
「たぶん営業だけじゃない。技術でも学問でも料理でもスポーツでもなんでもそうだ。ただ、オレの知っているのは営業の世界だけだからな。トップ営業と言われる連中は間違いなく愚直だ。例外は知らない」
褒められているのだろうか? 浩はどうも納得が行かなかったが、啓太の言うことなので耳を傾けることにした。
「正直、おまえは今ダメになりかけている。でも、おまえの愚直さは持って生まれた才能だから、失われることはない。たとえ、どん底に落ちたとしても、おまえは愚直さだけは失わないだろう。だから、オレはおまえのことなんか何も心配していない」
最初に啓太と飲みに行ったとき以来、いやそのとき以上に涙があふれてきた。
口ベタも愚直も才能なのか? 自分はそういう風に思ったことはなかったけど、啓太がそう言うならそうなんだろう。
「でも、オレ、どうしていいか分からないんです」
「答えはオレにもないさ。ただなあ、これだけは言える。ピンチはチャンスだし、また本人が持っているキャパシティ以上の不幸も襲ってこない」
浩は黙り込んだ。
「なりゆきに任せてしまえ。それが一番だ」
「無責任ですね」
「なるようにしかならない。若いんだし、復活も早いだろう。おまえなら大丈夫だ」
いつの間にか、2つのグラスが空になっていた。啓太は、バーテンダーに目で勘定にしてくれと合図した。
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