再会感動のイルカ(2/2 ページ)

» 2009年11月06日 14時00分 公開
[森川滋之,Business Media 誠]
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 10カ月ぶりなのに、いや10カ月ぶりだから、話が弾んだ。浩は4杯目の生ビールが運ばれて、店員が去ったあとに、清美にあらためて向き直った。

 「正社員になったといってもたいした手取りじゃない。しばらく働いてもらわないといけないと思うんだけど……」

 「なに? あらたまって」

 「うん。だから、なんと言うか、つまり……」

 「はっきり言って」

 「オレと結婚してくれ」

 清美の目から涙があふれた。

 「指輪もいまはあげられないし、式もできないかもしれないけど……。お願いします」

 「うん。こちらこそ、お願いします」

 清美は、照れ隠しなのか、三つ指をついて見せた。

 翌日、浩は社長結婚することを報告した。社長は、扶養家族になるのかどうかをまず尋ねてきた。当面は働いてもらうつもりだと告げると、ようやく「そうか、おめでとう」と言った。

 「でも、10月は忙しいんだけどなあ」

 浩が両親に知らせるから休ませてほしいと言うと、そんな返事が返ってきた。

 「いや、式も挙げませんし、新婚旅行も行きません。親にあいさつするために暇な平日に2日間休ませてもらうだけですから」

 「嫁さんの両親はそれでいいと言ってるのか?」

 浩は、清美が子供のころに両親を亡くしていること、育ててくれた叔父は東京に住んでいることなどを告げた。それで社長はようやく納得したようだった。

 新潟にいる浩の両親とはひと悶着(もんちゃく)あった。式を挙げないという話が、両親には気に入らなかった。父親は「何もそんなにあわてて結婚しなくてもいいだろう」と言った。母親は「苦労をかけると思うけどいいのか」と清美に尋ねた。清美は「ぜんぜん構いません」と答えた。結局、収入が安定したらあらためて式を挙げるということで両親は納得した。

 その晩、母親に呼び出された。

 「せめて、結婚指輪ぐらい買ってあげなさい」

 お札のつまった封筒を渡されて、浩は泣きながらすまないと謝るだけだった。

 両親への報告が終わってすぐ、籍を入れた。本当は引っ越したかったが、清美がかまわないと言うので、高井戸の四畳半のアパートで新生活を始めることになった。四畳半と言っても、古いアパートなので、公団住宅の六畳ぐらいの広さはあった。キッチンもあったし、夫婦二人で当面の生活をするには大きな問題はなかった。子供ができたら引っ越そう、それまでに節約してお金をためようと浩は考えた。

 引っ越し屋が天職という考えは変わっていなかったのだが、仕事に慣れてくると、いろいろなことが見えてきて、不満が出てきた。といっても、待遇の話ではない。半年たらずで正社員にしてくれたこともあり、その点に関しては社長に感謝している。何かやり方が違うような気がするのだ。

 浩は、5年間営業をやってきた。最後のほうでは少し方向性がおかしくなったが、基本的にはお客を好きになり、お客ときちっと向き合うというやり方で営業成績を伸ばしてきた。その経験から考えると、引っ越し屋の人間はあまりにもお客を見ていないのではないかと思うのだ。

 お客にもいろんなタイプがいる。こちらが忙しいにもかかわらず、ずけずけとモノを頼める人もいる。しかし、大多数は、業者である引っ越し屋側に気を遣ってくれている。本当は今すぐやってほしいことを忙しそうだから頼めないというお客がほとんどなのである。

 これは、お客をきちっと観察していれば分かることである。理不尽なことを頼もうとしているわけではない。ちょっと通りがかりに、重い荷物を動かしてほしいという程度のことを頼もうとしている。その証拠に目が合えば、「すいませんが、……」と頼んでくるし、すぐに済むことばかりである。

 要するに、引っ越し屋はお客を見ていない。それだけのことなのだが、営業経験の長い浩には、大きな違和感があった。

 もう1つ、半年勤めて分かったことがある。辞める人間が多いのだ。バイトはまだしも正社員もよく辞める。浩が正社員になれたのはそのおかげなのだが、それにも違和感があった。フルコミッションの販売会社でも、ここまで人の出入りは激しくなかった。バイト初日に一緒だった木田はとっくに辞めていた。山下は温厚な性格なのでかろうじて残っているという感じだ。

 フルコミッションの営業が辞める理由ははっきりしている。いつまでたっても売れないので、見切りをつけて辞めるのだ。仕事が厳しくて辞めるというパターンだ。一方、引っ越しは確かに重労働だが、精神的なつらさは小さい。あるとすれば、将来への不安だが、自分はこういうことがしたいという理由で辞める者は少ない。ほとんどの者は、社長に不満があって辞めている、というのが浩の観察による結論だった。

 社長に恩義を感じている浩でさえ、結婚の報告のときの社長の態度は少し気に入らなかった。扶養家族になるのかどうかを聞くより先に祝福するのが普通だろうと思う。特に恩義を感じていない連中にすれば、ささいなことでも腹が立つに違いない。

 つまるところ社長は、社員と向き合っていないのだ。その社長の姿勢が回りまわって、社員がお客と向き合わないということに反映されているのだ。

 引っ越し屋は自分の天職だが、ここは自分の理想とする職場ではない――と浩は漠然と感じはじめていた。

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著者紹介 森川滋之(もりかわ・しげゆき)

 ITブレークスルー代表取締役。1987年から2004年まで、大手システムインテグレーターにてSE、SEマネージャーを経験。20以上のプロジェクトのプロジェクトリーダー、マネージャーを歴任。最後の1年半は営業企画部でマーケティングや社内SFAの導入を経験。2004年転職し、PMツールの専門会社で営業を経験。2005年独立し、複数のユーザー企業でのITコンサルタントを歴任する。

 奇跡の無名人シリーズ「震えるひざを押さえつけ」「大口兄弟の伝説」の主人公のモデルである吉見範一氏と知り合ってからは、「多くの会社に虐げられている営業マンを救いたい」という彼のミッションに共鳴し、彼のセミナーのプロデュースも手がけるようになる。

 現在は、セミナーと執筆を主な仕事とし、すべてのビジネスパーソンが肩肘張らずに生きていける精神的に幸福な世の中の実現に貢献することを目指している。


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