「ホテルオークラ東京」を建て替えなくてはならない本当の理由スピン経済の歩き方(3/4 ページ)

» 2015年09月08日 08時09分 公開
[窪田順生ITmedia]

あっさりと壊される

 虎ノ門というエリアを国が音頭をとって再開発をする以上、「添え物」であるホテルも足並みをそろえて生まれ変わらなくてはいけないというわけだ。実際に森社長のおっしゃることは本質を突いている。歴史を振り返れば、日本におけるホテルは「国の方針」の添え物として考えられてきたことは明らかだ。ホテルの「御三家」といわれたオークラ東京は1962年開業、もうひとつのホテルニューオータニも1964年開業。言わずもがな、東京五輪によって訪れるであろう外国人観光客を意識して生まれたのだ。

 このような傾向は、戦前から変わらない。戦争で中止になったが、1940年に東京でオリンピックが開かれることが決定した時も、外国人観光客の受け入れ先として日本政府がホテル建設を後押しし、公的融資を受けた14軒のホテルができたほか、民間の活力でもじゃんじゃんホテルができた。こうして生まれたのが、上高地帝国ホテル、雲仙観光ホテル、川奈ホテル、蒲郡クラシックホテル、甲子園ホテル、琵琶湖ホテルなど。日本でクラシック・ホテルと呼ばれるものが1930年前後に建てられているのが多いのは、「国策」が大きく影響しているのだ。

 ただ、しょせんは「国策」で造られたので、一時の役割を終えるとあっさりと壊される。建造物としてどんなに優れていても、どんなに歴史的価値があっても保存をしようという動きはない。分かりやすいのが、花の1930年代組のなかでもドイツのバウハウスの流れをくむ斬新なデザインで異彩を放った「強羅ホテル」だ。

 ご存じの方も多いと思うが、ここは終戦間近の1945年6月3日、ソ連を仲介者とする和平工作が行われたとされるホテルだ。交渉は3日間に及んだが不調に終わった。まさに日本の将来を決定づけた貴重な場所ではあるが、1998年にサクッと壊された。今だったら外国人観光客が大挙して訪れたであろう茅葺屋根(かやぶきやね)の「野尻湖ホテル」も2003年に壊された。

 こういう流れを考えると、「東京五輪」によって生み出された「オークラ東京」にどんなに建造物としても価値があったとしても壊されるのはしょうがない。国家が旗振り役となって、巨額のカネが動くプロジェクトが進行している。これまでと同様、「日本の伝統美を守って」なんて市井の声が反映される余地などないのだ。

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