マツダがロータリーにこだわり続ける理由 その歴史をひもとく池田直渡「週刊モータージャーナル」(5/5 ページ)

» 2015年09月28日 08時00分 公開
[池田直渡ITmedia]
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急ピッチで事業拡大

 1963年10月には東京モーターショーにロータリーエンジンを出品し、恒次自ら銀行と販社を回った。東洋工業の前途を危ぶむ銀行や、販社のスタッフに「ロータリーがあるから大丈夫だ」と説得を続ける。この行脚に同伴したのが後の社長で、ロータリーエンジン開発の指揮を執った山本健一である。山本は技術者として、成長のキーはコンベンショナルなレシプロエンジンにあると考えていたし、社運のかかったファミリア・セダンの発売も控えていた。そのやるべきことが山積している中で、ロータリーなどという変化球にかかわっている場合ではないと思っていたが、販社を行脚して販売スタッフにロータリーエンジンの技術説明を重ねるうちにどんどん引っ込みがつかなくなっていく。

 「嘘から出た誠」と言ったら言い過ぎかもしれないが、こうして東洋工業初のロータリーエンジン搭載車「コスモスポーツ」の開発はスタートする。三次テストコースの第1号として開発されたクルマこそコスモスポーツだった。三次こそがロータリー生誕の地なのである。

 1960年に初めてロータリーエンジンを目にしてから、わずか5年の間に、調印、認可、工場建設、テストコース建設、試作ロータリーエンジンの東京ショー出品、コスモスポーツ・ショーモデルの出品という現在のIT業界も驚愕するような異常な速度で東洋工業は驀進した。コスモスポーツが世に出たのは1967年6月のことである。

 マツダの人は今でも言う。「ロータリーで儲かったことは一度もありません」。オイルショックの危機を迎えたときには当然、燃費に難があるロータリーから撤退することも議論された。しかし「ロータリーを信じて買ってくれたお客さまに対して、ロータリーから撤退したら信義に悖る」として、心血を注いで燃費を改善した。ロータリーはマツダ以外の会社は作っていない。マツダが止めたら、それはロータリーの歴史が終わることを意味する。マツダの技術者は一丸となってサーマルリアクターを何度も改善し続けたり、ポートタイミングを可変にする仕組みを考案して、燃費と排気ガス対策を行うことで、ロータリーの火を灯し続けたのである。

 かつてマツダに、この業界で知らない人のいない名物広報がいた。体育会ラグビー部出身の豪快な人だ。既に定年退職して第2の人生を送っているその人に三次のイベントで久しぶりに会った。「Nさん。787Bがル・マンで優勝したとき、便所で男泣きしたんでしたよね」と筆者が冷やかし気味にそう言うと、彼は答えた。「人生に一度くらい泣くほどの奇跡があったっていいじゃない。あれはさ、レギュレーションとか、燃費とかもうホントいろいろなものがある中で、次がないラストチャンスで優勝できたんだよ。俺はいい体験させてもらったなぁ」。

 筆者は猛烈なスピードで走り抜けるチャージカラーの787Bの甲高い音を聞きながら、彼がどんな思いでこの音を聞いているのかを考えていた。全国から三次に集まったマツダファンの歓声を打ち消して、秋空の下を日本でただ一台のル・マン優勝車が走り抜けて行った。(文中敬称略)

快走を見せるマツダ787B 快走を見せるマツダ787B

筆者プロフィール:池田直渡(いけだなおと)

 1965年神奈川県生まれ。1988年企画室ネコ(現ネコ・パブリッシング)入社。取次営業、自動車雑誌(カー・マガジン、オートメンテナンス、オートカー・ジャパン)の編集、イベント事業などを担当。2006年に退社後スパイス コミニケーションズでビジネスニュースサイト「PRONWEB Watch」編集長に就任。2008年に退社。

 現在は編集プロダクション、グラニテを設立し、自動車評論家沢村慎太朗と森慶太による自動車メールマガジン「モータージャーナル」を運営中。

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