マスコミ報道を萎縮させているのは「権力」ではなく「中立公平」という病スピン経済の歩き方(2/5 ページ)

» 2016年03月15日 08時00分 公開
[窪田順生ITmedia]

権力の監視も含めた「国民からみた公平さ」

 実は田原さんたちが怒るきっかけとなった「電波停止問題」というのは、怒ってどうにかなる話ではない。放送法第4条の中に放送局の「編集準則」という要件として「政治的に公平であること」とちゃんと明文化されているからだ。一部の産業が少々ゴネてみたら法律が無効になりましたなんてことがあったら、そっちのほうが法治国家としては大問題なのであって、もしまかり間違って民進党が政権をとっても、総務大臣の答弁はああゆうことになる。つまり、これは安倍政権がファシズムだとか、軍靴の音が聞こえるとかという類の話ではないのだ。

 すべての元凶が、「政治的公平」というおかしな記述にあるということは、よその国をみても明らかだ。

 例えば、米国なんか分かりやすい。かつてはテレビ局を管轄する連邦通信委員会が「報道の政治的公平」を求める時代もあったが、1987年にこれをスパッと廃止。300以上のチャンネルがわんさかあって、視聴者である「米国人」というものも多様化していく中で、テレビの「政治的公平」を誰がジャッジするのかというのはほぼ不可能だからだ。

 それは、日本人が「ジャーナリズムの鏡」としてうらやむ英国の国営放送BBCにもあてはまる。ここはかつてフォークランド紛争を「中立」に報道し、サッチャー政権から厳しく批判されても屈しなかったことで、NHKも爪の垢を煎じて飲めみたいな感じで引き合いに出されることも多いのだが、これも英国のテレビ局に「政治的公平」を求める法的な縛りがないことが大きい。「公平さ」というのはあくまで個々の自主的なガイドラインによって判断されているのだ。

 実際、当時のBBCのガイドラインにも、「公平性は、絶対的な中立性を意味するのではない」という記述があり、このガイドラインも時代によって恣意的に運用され、ちょこちょこ書き換えられてきた。つまり、世界ではジャーナリズムにおける「公平」というのは、権力の監視も含めた「国民からみた公平さ」であり、それは個々のジャーナリスト、報道機関が自らの言説の中で国民に対して示していくものなのだ。少なくとも、大臣やら監督官庁やら法律に基づいて「ジャッジ」をするようなものではない。その報道が公平かどうかを判断する人の「公平さ」は、誰が判断するのかという堂々巡りになってしまうからだ。独立機関をつくってもそれは同じだ。

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