最初はまったく売れなかった明太子、どうやって福岡から全国区に?日本初の明太子メーカー・ふくや社長に聞く(3/5 ページ)

» 2016年04月18日 08時05分 公開
[伏見学ITmedia]

背広姿の客の正体

 明太子の販売を始めてから10年が過ぎた1960年ごろ、ふくや、そして明太子にとって大きな転機が訪れる。今までほとんどいなかった背広姿の客が明太子を買い求めて店にやって来るようになったのである。彼らの多くは東京や大阪などからの出張者だった。

 「福岡は支店経済都市で、東京などから転勤でやって来るサラリーマンは少なくありませんでした。彼らの中には地域や学校のPTAの活動にかかわる人も多く、そこで父が配っていた明太子をよく食べていました。彼らが駐在を終えて本社に戻った後、明太子が懐かしくなり、部下や同僚などが福岡に出張するたびにお土産として買いに行かせていたのです」(正孝氏)

 ふくやの明太子は、実は地元よりも東京や大阪からじわじわと人気が広がっていたのである。

 そして1975年3月に博多駅まで新幹線が延び、新大阪〜博多間の山陽新幹線が全線開業したことで、一気に明太子が福岡の名産として全国に広まることになるわけだが、そのころにはふくや以外にも明太子メーカーがいくつも誕生していた。そのため、「明太子が全国に知れ渡ったのはふくやの力ではなく、ほかの明太子屋のおかげ」だと正孝氏は述べる。

 これはどういうことだろうか。そのためにはなぜ明太子メーカーが福岡の街に次々と生まれたのかを説明する必要がある。

 きっかけは買い物客の勘違いからだった。

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