つまり世間の批判と商売は別物。倫理や道徳に反したという批判があっても、自分の商売が継続できるスタイルのビジネスモデルと、そうでないビジネスモデルがあるということです。昭和の伝説的俳優の勝新太郎さんなど、麻薬で有罪になっても「勝新だから」と納得してしまう存在感がありました。立川談志さんも亡くなる前から放言・トラブルはしょっちゅうありましたが、「談志だから」で済んでしまう存在でした。
さすがに法律違反はもはや許されなくなりましたが、倫理や道徳といった点であれば、アウトロー的な存在感を売りにした昭和の芸能人であれば、客も認めてしまう(許してしまう)風潮があったといえます。単純に善悪だけで結果が決まるものではないのは、芸能というものがただの情報やロジックではなく、感情を揺さぶる作品だからでしょう。結果としてみれば、川谷さんがどれだけ世間から批判されても商売ができているのは、そのビジネスモデルのためです。
舛添知事の場合、自分を知事職から追い払えるのは都民ではなく、与党しかいないという制度上の特質を見抜いていました。リコールシステムの限界で、都民が知事をリコールするのは、方法としては可能でも現実には不可能というシステムの欠陥を知り抜いていたのでしょう。舛添氏のビジネスモデルでは与党が支える限り、自らの地位は安泰との判断だったと思います。
目算が狂ったのは、自らの傲慢(ごうまん)な態度がその与党にまで批判として広がってしまったことです。与党も自分たちの選挙に影響が出てまで舛添氏を支えることはできません。舛添氏は「お客」を見誤ったと言えるのではないでしょうか。
危機の事態収拾では、こうした冷徹な分析が欠かせません。批判や炎上でパニックになれば、冷静な判断もできなくなります。ビジネスを継続したいから謝罪によって事態収拾を図るのであって、単にわびれば済むのではありません。自分のビジネスを支える「客」が誰で、その客が自分の商売を支持し続けてくれるかどうか、その基本を押さえた上で謝罪があるのです。(増沢隆太)
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