廃線危機から再生、「フェニックス田原町ライン」はなぜ成功したか?杉山淳一の「週刊鉄道経済」(3/5 ページ)

» 2016年08月19日 06時30分 公開
[杉山淳一ITmedia]

廃線の危機だった福井鉄道

 福井鉄道福武線はかつて存続の危機があった。福井鉄道はほかにもバスや不動産事業を手掛けている。その一方で、鉄道事業については1963年に赤字転落。他部門の黒字で鉄道の赤字を補っていた。えちぜん鉄道との直通運転は、いわば起死回生の望みでもあった。

福井鉄道福武線 福井鉄道福武線

 ところが2004年の福井豪雨の被災、工事の延期などで福井鉄道はますます窮地に追いやられる。福井県が福井鉄道の自主再生計画の策定を進めていたところ、2007年9月に福井鉄道は鉄道部門の自力再生は困難とし自治体に支援を求めた。自治体が応じられなければ廃止になるところだった。

 そこで、当時、福井鉄道の筆頭株主だった名鉄と沿線自治体が協議し、名鉄が10億円を拠出する代わりに経営から撤退することで合意。しかしその使い道で揉める。当時の福井鉄道は過去の退職者を含めて退職金の支払いが滞っており、名鉄側は10億円をまず退職金に当てるよう要求。しかし福井県側は経営安定のため有利子負債の圧縮に当てようとした。こうした動きの中で、2008年5月、福井市、鯖江市、越前市は10年間の維持費負担で合意する。このとき、福井鉄道は7月の運転資金のめどが立っていなかったという。

 さらに同年11月、前記3市は福井鉄道再建策として、修繕費の負担と敷地の取得で合意する。これと名鉄の撤退、地元経営陣による再出発などで存続のめどが立った。2009年9月には、地域公共交通活性化法に基づく鉄道事業再構築実施計画が承認され、福武線の存続が決まった。これは国の鉄道事業再構築実施計画の第1号であった。フェニックスの尾にあたる部分である。

えちぜん鉄道再生からの教訓

 直通運転の相手方、えちぜん鉄道も廃線の危機から脱した鉄道だ。時期はさらにさかのぼって1992年2月。えちぜん鉄道の前身、京福電鉄は越前本線末端区間と永平寺線の廃止計画を発表。翌月には沿線自治体の議会が存続を決議。10月に福井県議会が存続請願を採択。その後、沿線自治体による回数券購入助成、京福越前線活性化協議会を結成し、利用促進策・行政支援を実施してきた。

えちぜん鉄道三国芦原線。かつては東尋坊のそばまで達していた えちぜん鉄道三国芦原線。かつては東尋坊のそばまで達していた

 そんな中、2000年12月に越前本線で列車正面衝突事故が発生。原因は補修し続けたブレーキの破損で、乗客24人が重軽傷、運転士が殉職。さらに半年後の2001年6月にも列車正面衝突が発生する。原因は運転士の信号無視。ほかの鉄道会社ではこの場合、ATS(自動列車停止装置)が作動するけれども、この路線にATSは設置されていなかった。もとより京福電鉄(福井鉄道部)は困窮しており、安全面に十分な予算がなかった。

 国土交通省は2回目の事故の翌日に全線の運行停止とバス代行を命じた。かなり厳しい処置だ。中部運輸局は7月に安全確保に関する事業改善命令を出す。しかし京福電鉄側に改善の予算はなく、10月に事業廃止届けを提出した。

 えちぜん鉄道のアテンダントが仕事ぶりを紹介した本『ローカル線ガールズ』(メディアファクトリー刊)によると、鉄道が運休した結果、鉄道を利用していた通学生や通院の傷病者、お年寄りの送迎のためマイカー利用が急増し、渋滞が慢性化した。代行バスのダイヤが維持できないだけではなく、救急車、消防車両の通行もままならない状況だったという。家族の送迎をするドライバーも仕事や家事の時間を奪われた。沿線では鉄道利用者も非利用者も困る事態となった。

 福井県と沿線自治体は第三セクター化による鉄道存続を決定し、永平寺線のみバスに転換した後、2003年に越前本線と三国芦原線をえちぜん鉄道として再起動した。これがフェニックスの翼の部分になる。

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