小日向: 茶々が且元を疑うよう、家康がいろいろと仕向けたように思えます。例えば、「方広寺鐘銘事件」のときです。1614年に京都・方広寺の梵鐘が完成し、それを且元が家康に報告したところ、「国家安康」「君臣豊楽」という鐘銘が気に入らないと突っぱねました。これは明らかな挑発で、茶々などは紛糾するのですが、何とか両家の間を取り持つために弁明しようと、且元は家康がいる駿府を訪れました。
けれども家康への面会は叶わず、徳川側から「秀頼の駿府と江戸への参勤」、「茶々が江戸に来て人質となる」、「秀頼が大坂城を出て他国に移る」といった無理難題を突き付けられたのです。
大坂に戻って茶々に伝えると、その側近などから疑いの目で見られて、ついには大坂を追われることになりました。どちらからも見放された、悲哀に満ちた人でした。
編集部F: 今の世の中でもあることですね。上司からは何とかして売って来いと言われ、顧客からは無理難題を押し付けられる、そんな板挟みの営業マンのようです……。
小日向: 結局、大坂の陣では徳川側についたのですが、それは本心ではなく、豊臣側から裏切り者と言われるので、帰る場所がなくなったというのが実のところではないでしょうか。とにかく且元は秀頼を守ろうとしたようで、実際、大坂の陣の間も家康に対して秀頼の助命を訴え続けたという手紙が残っています。
且元は秀頼が亡くなった20日後に病気で急死しています。私は大坂の陣で徳川側についたから怨念か何かで死んだのかと思っていましたが、調べてみると自害という説もあるそうです。且元を知れば知るほど秀頼のことを本当に思っているので、家康に取り入るというよりも、何とかして豊臣家をつぶさないように最後まで動いたのではないかなと思います。
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