そこまで言うと、もう筆者がなにを言いたいのか分かっていただけるだろう。この条件に最もしっくりくるのが、『水戸黄門』なのだ。
ご存じのように、この時代劇の最大の見せ場は、「この紋所が目に入らぬか、控えおろう」の決め台詞(せりふ)で、悪人どもが平伏すシーンだ。まれに、光圀公(みつくにこう)だと分かってからも「もはやこれまで、お命頂戴」と反撃にでる者もいるが、「必殺仕事人」のように、悪代官たちをブスリとやったり、三味線の弦で首吊りをさせたり「私刑」を行わない、というのがご老公のポリシーだ。「罪を憎んで人を憎まず」ではないが、悪人は非を認めて膝をついて許しを乞(こ)うのがフォーマットになっている。
実はこの土下座劇を、我々日本人は昭和の頭から気が遠くなるほど繰り返し繰り返し見せつけられている。
というのも、テレビドラマの『水戸黄門』はTBSのナショナル劇場では42年続いているが、ブラザーの提供時代や、日本テレビ、NHK、フジテレビという他局で制作されたものを加えると60年前から放映されている。これはNHKがテレビ放送を開始した1953年の翌年にあたる。つまり、日本のテレビの歴史というのは、そのままドラマ『水戸黄門』の歴史でもあるのだ。
さらにもっと言ってしまうと、実は明治時代になって日本で映画がつくられるようになってから、戦後のGHQ統治の一時期を除いて、『水戸黄門』は繰り返し繰り返し映画化されているのだ。その数はざっと70を超える。
いまのような印籠スタイルが定番になったのは、TBSの42年間らしいが、正体を隠したご老公が悪人を「へへっー」とひれ伏させるのはこの100年間変わらない。
つまり、我々日本人が土下座の本来の意味を忘れて、「土下座=悪人が非を認めた時にとる姿」ということが日本古来の文化だと勘違いしているのは、『水戸黄門』が100年にわたって、我々庶民に「スカッとした土下座」を提示し続けたことが大きいのだ。
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