小田急の特急ロマンスカーが残した足跡杉山淳一の「週刊鉄道経済」(4/5 ページ)

» 2017年09月08日 07時00分 公開
[杉山淳一ITmedia]

長距離列車に注力、ロマンスカーへ続く遺伝子

 小田原急行鉄道は1935年から「週末温泉急行」を運行する。新宿〜小田原間はノンストップで90分だった。クロスシートの101形を使った。これも特急ロマンスカー「はこね」の起源となる列車だ。「週末温泉急行」は太平洋戦争の影響で運休となり、小田原急行鉄道は小田急電鉄に改称するも、戦時政策で東京横浜電鉄、京浜電気鉄道と合併。大東急となった。

 戦後、1948年に小田急電鉄は分離独立した。小田急は経営を立て直すため、新宿〜小田原間の特急列車を運行する。長距離輸送という収入の柱を立て直した。その翌年にロマンスカーの起源の1つとされる1910形が誕生する。車内で飲み物を販売し、走る喫茶室と呼ばれた。ロマンスカーの車内販売サービスの元祖かもしれない。

 小田急は大胆にも新宿〜小田原間を一気に開通させた。しかし、沿線開発が進むまでは乗客が増えない。そこで新宿〜小田原の直通列車にこだわり、スピードとサービスの質を高めていった。江ノ島線も同様だ。

 小田急のロマンスカーへの取り組みは、日本の、いや、世界の高速鉄道に影響を与えている。3000形SEの狭軌世界最高記録だ。小田急は戦前の新宿〜小田原間の90分を60分に短縮しようと考えていた。これはスピードアップのためというより「早く往復できれば必要な車両数も減らせる」という経済的な事情でもあった。そこで、従来の「大出力モーターと、そのチカラを線路に確実に耐えるための重厚な車体」という発想から、車体の軽量化、モーターの高性能化を検討していた。

 同じ時期、国鉄も高速電車の研究に着手していた。そこで、国鉄と小田急の共同開発が始まった。この研究成果を受けて作られた車両が3000形SE車だ。3000形SE車は小田急線内で時速127キロを達成する。しかし、小田急線内ではこれ以上の速度を出せる線路がなかった。そこで、直線区間の多い国鉄の東海道本線を使った試験が行われた。その結果、時速143キロを達成。これは狭軌(標準軌1435mm未満の軌間)の世界最高記録となった。

 国鉄側の担当者で、当時「東京〜大阪間3時間への可能性」という講演を開催した島秀雄は、この研究成果を基に、標準軌であればもっと高速化できると自信を深めた。国鉄は研究成果を基にして、標準軌新線の前段階として151系特急電車を開発。時速163キロを達成した。151系は東海道本線で「こだま号」として活躍することになる。

 3000形SE車の速度試験は、日本の鉄道技術者を奮い立たせた。小田急のロマンスカーは東海道新幹線の実現に大きな影響を与え、東海道新幹線は世界の高速鉄道時代を開いた。

photo 原信太郎氏が撮影したロマンスカーの写真(アルバムのカラーコピー)

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