「街のビール屋さんを文化にしたい」 100店舗出店に燃える多店舗出店の苦しみを乗り越える(2/4 ページ)

» 2018年03月01日 06時00分 公開
[昆清徳ITmedia]

脱サラ後に目標が見つからず苦しんだ

 能村氏が自分の夢を見つけるまでには紆余曲折あった。20代のときは広告代理店に勤務し、某ビールメーカーの販促支援を担当していた。終電まで働くほどの激務だったがやりがいも感じていた。しかし、仕事中心の生活に限界を感じて09年4月に退職。共働きだった妻の理解も得られたため、仕事を辞めてから「自分探しの旅」に何度も出かけた。

 ある日、旅先で出会ったのが「栃木マイクロブルワリー」という小さなビール工房だった。たった1人でビールをつくる醸造家の姿に衝撃を受けた。

 「ビールは装置産業だと思っていました。でも、こんな小規模でもできると気づいたんです。そこから必死にビールの勉強を始めました」

 ビールの醸造方法を学んでいた10年1月、師匠となる吉備土手下麦酒(岡山県岡山市)の永原敬社長に出会う。永原社長は自社でつくったビールを岡山県内だけに流通させるスタイルを貫いていた。具体的な醸造方法や店舗運営だけでなく、街のビール屋さんというコンセプトや経営理念も社長から教わった。

 「ビールに出会う前は霧のなかにいるようで本当につらかった。でも、自分がやるべき仕事を見つけることができました」

 能村氏は無職の期間が長引くことで焦りを感じていた。収入が途絶えたことで金銭的に苦しい場面もあった。だが、もがき続けたことで天職に出会えたと振り返る。

 永原社長からのアドバイスも取り入れながら開店の準備を始めた。なんとかかき集めた開業資金は500万円。決して十分な額ではなかったが開店できないほどではない。防火設備や食中毒対策といったプロに頼まなければいけないもの以外はほとんど自作した。

 「肉体的に大変なこともありましたが、『節約できてよかった』『自分で選んだことだ』という意識が強かったので辛いとは思いませんでした」

 10年12月、妻と1号店を開業した。

photo 師匠の永原社長(右)と能村さん

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