鉄人・衣笠祥雄氏は、なぜカープの監督になれなかったのか赤坂8丁目発 スポーツ246(3/4 ページ)

» 2018年04月25日 10時41分 公開
[臼北信行ITmedia]

晩年は「仏の鉄人」と呼ばれた

 球団側からは「24日の時点で報道こそされていたが、衣笠氏の親族が公式に死去を認めていなかったから公式のコメントは出しづらい」との声も聞こえては来ていたが、これだけ世の中に「鉄人死去」の訃報で反響が広まっていたのだから普通に考えて当日すぐにトップの経営者が何らかの対応をして然るべきであろう。しかも前述したように衣笠氏の現役時代の背番号「3」は永久欠番であり、本拠地のマツダスタジアムにも同氏の偉業を称えるレリーフが2010年から設置されている。

 そうであるにもかかわらず、衣笠氏の死去が明らかになった24日、チームの面々は球団側から何ら指示を受けることもなく、敵地・横浜スタジアムで行われた横浜DeNAベイスターズとの公式戦でユニホームに喪章をつけてプレーすることもなかった。

 緒方孝市監督は試合前、報道陣に囲まれると神妙な面持ちで衣笠氏の訃報に関する悲しみの言葉を発したとはいえ、どこか球団経営陣とチーム、そして故人の間には何ともスッキリしないギクシャクした感が漂っていたのは紛れもない事実であった。

 だが、もしかすると衣笠氏本人は古巣に指導者として復帰できなかったことに対し、特に何も感じていなかったのかもしれない。プレーヤーとして「鉄人」の異名を取りながらも引退後、その素顔は非常に穏やかな人物で周囲に波風を生むことを嫌い、気配りのできる人格者であった。鼻高々に振る舞うことなど絶対になく、どういう人に対しても笑顔で接し、晩年は「仏の鉄人」と呼ばれていた。

 著名なプロ野球OBならば古巣の球団側に「監督をやらせてくれ」「コーチでいいから、もう一度ユニホームを着させてほしい」と自分からいろいろなアプローチをかけて懇願することなど、この世界では日常茶飯事。だが衣笠氏はひとたびユニホームを脱いでグラウンドを離れると基本的に無欲で平和主義者であり、そういう媚(こ)びへつらう姿勢については極端に毛嫌いした。

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