この手の「パクリ騒動」が後を絶たないのは、日本の外食というものが、そもそも「パクリ」を前提に成長してきたからである。
どこまで日本をおとしめれば気が済むのかと怒りでどうにかなってしまう方もおられるかもしれないが、歴史を客観的に振り返れば残念ながらそうとしか考えられないのだ。
誰もが自分の飲食店を唯一無二の存在でオリジナリティーがあると錯覚するが、まったくのゼロベースで生み出されたものはまれだ。多くは、どこかの店のスタイルを参考にしたり、どこかで見聞きしたアイデアに触発されたりと、無意識にパクっているのだ。
その代表が「居酒屋」だ。食文化史研究家・飯野亮一氏の「居酒屋の誕生 江戸の呑みだおれ文化」(ちくま学芸文庫)によると、この業態が生まれたのは江戸時代で、寛延年間(1748〜51年)のさまざまな資料に「居酒屋」の記述が見られ始めるという。
そこから一気に増加していくわけだが、その原動力となったのが「パクリ」だ。
繁盛する居酒屋ができると、即座に同じ屋号を掲げたり、同じようなスタイルを取り入れたりする居酒屋が雨後のタケノコのようにあらわれたのだ。そして、その業態やスタイルは現代の居酒屋とそれほど変わっていない。
例えば、葺屋町(現在の日本橋人形町)に「三分亭」という居酒屋ができて人気となると、すさまじい勢いでパクられていく。天保末期、1845年ごろの江戸の風俗を記した「わすれのこり」にはこう記されている。
「所々に三分亭という料理屋多く出来たり。座敷廻り綺麗にして、器物も麁末なるを用ゐず。何品にても三分づゝ、中々うまく喰はす」
前掲書によれば、三分とは銀三分のことで 銭三〇文に当たるという。これは、今の貨幣価値だと360円くらいになる。つまりこの時代に、うまいつまみを安い均一料金で提供し、きれいなインテリアで見せるという業態がすでに確立していたということだ。
Copyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.
Special
PR注目記事ランキング