長く売れ続ける「定番」を狙う デザイナー・小関隆一氏のモノ作り哲学とは?:「全力疾走」という病(1/7 ページ)
ワインボトルの形をしたLED照明「Bottled」や、ペン型のはがせる水性塗料「マスキングカラー」など、ユニークな日本の技術をうまく組み合わせた商品をデザイン。これらは国内外で売れ続けている。その仕掛け人、デザイナーの小関隆一氏の生き方を追った。
「全力疾走」という病:
今までの常識や固定観念などにとらわれず、業界に風穴を開けたり、世の中に新しい価値をもたらしたりする変革者が存在する。彼らの多くには明確なゴールがなく、まるでとりつかれたかのように、常に前へ向かって全力で走り続けている。そうした者たちはどのように生きてきて、これからどのように未来を切り開いていくのだろうか。
独立した初年度の売り上げは微々たるもの――。
2011年3月、その商業デザイナーは、それまで10年以上も勤めたデザイン事務所を辞め、独り立ちを決めた。その直後、東日本大震災が起きた。日本中が自粛ムードに包まれる中、東京の片隅でひっそりと開業した。
あれから5年。「グッドデザイン・ベスト100」や「iF Design Award」など、さまざまなタイトルを獲得するとともに、国内外の有名インテリアショップなどにも並ぶ人気商品をデザインする。
例えば、東京大田区の中小企業、太洋塗料とコラボレーションした“はがせる”水性塗料「マスキングカラー」は、フランス・パリで毎年1月に開かれる欧州最大級のインテリア&デザイン見本市「メゾン・エ・オブジェ」に今年初出展。バイヤーから高い評価を受け、海外からの引き合いが止まらない。1本1600円(Sサイズ、38ミリリットル)と安くはないが、国内でも東急ハンズなどで人気を呼び、2013年の発売から累計で2万本以上を売り上げている。
男の名は小関隆一(42)。東京都新宿区、早稲田大学からほど近いレトロなマンションの一室にスタジオを構える。小関が手掛ける商品の特徴は、シンプルで分かりやすい、それでいて機能的なデザインだ。多くの商品は人気を博し、デザイナーとして順風満帆のように見えるが、「まだまだこれから。もっと勝負を挑んでいく」と息巻く。
小関は言う。「世の中にモノが溢れたこんな時代に、さらにモノを作る意味や目的は一体何でしょうか?」
自らの生業を否定するような発言をする真意は、モノ作りへの危機感である。
「メーカーが新製品を出すのはビジネスを進める上で必要であるのは変わりないが、その製品が本当に世に出すだけの意味や価値があるかは常に意識しなければなりません。製品の立ち位置や企業の戦略ももちろん大切ですし、社会の動向やタイミング、スピード感も絡み合います」
多くのメーカーに技術力はあるけれども、残念ながらそれを価値あるものに変える発想力は乏しい。そうであれば、自分がデザイナーとしてその発想力を提供すればいいのではないか。小関はそう考えている。
デザイナーの小関隆一氏。1973年、東京都生まれ。1998年に多摩美術大学美術学部デザイン学科インテリアデザイン専修卒業後、I.D.K.デザイン研究所に在籍して喜多俊之氏に師事。2011年にリュウコゼキデザインスタジオ設立
今でこそ気鋭のデザイナーとして注目を集める小関だが、実はデザインの道に進むきっかけは「勉強が嫌いだったから」という消極的な理由だった。一体どのような半生を歩んできたのだろうか。
関連記事
- 音楽家出身のフリーマンCEOがブルーボトルコーヒーのビジネスで成功した理由
2002年に米国西海岸で創業したブルーボトルコーヒーは、国内で着実に店舗拡大するとともにブランド力を高め、2015年2月には初の海外出店として日本に進出を果たした。創業者であるジェームス・フリーマンCEOは元クラリネット奏者のアーティストだ。そんな彼がブルーボトルコーヒーで“表現”したいこととは――。 - 漫画が売れたら終わりではない 敏腕編集者・佐渡島氏が描く『宇宙兄弟』の次
講談社時代、漫画『ドラゴン桜』や『宇宙兄弟』など数々のヒットを飛ばした編集者、佐渡島庸平氏。大手出版社勤務というキャリアを捨てて彼が選んだのは、作家エージェントとしての起業だった。彼を駆り立てるものは一体何だったのだろうか――。 - 「仕事は与えられるものではない」――私の行動を変えたある事件
MAXとしてデビューしてから順調に活動を続けていた私たちに、ある日突然、事件が起きました。それまで仕事は自然とやって来るものでしたが、その価値観が180度変わってしまったのです……。 - 会社勤めをやめ、カフェを開く意味
カフェは店主やお客によって育てられると同時に、店主やお客を育てていく。この相互作用を体現しているお店、雑司ヶ谷の「あぶくり」と中板橋の「1 ROOM COFFEE」もそんなカフェと呼べるだろう。 - 自ら上場させた会社を辞め、2度目の起業を決意するまで
26歳で初めて創業した会社のビジネスが軌道に乗り、30歳で結婚し、3人の子どもの出産、そして上場。公私ともに順風満帆だった私を、ある日突然、悲劇が襲いました。「何とかするしかない!」。そう心に誓って、困難に立ち向かっていったわけですが……。
Copyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.