「どさん子ラーメン」は今…… 急成長から衰退までの経緯と復活のシナリオに迫る:長浜淳之介のトレンドアンテナ(1/5 ページ)
札幌みそラーメンの“伝道師”として急成長した「どさん子ラーメン」。かつては1000店以上を展開していたが、マネされるのも早かった。“衰退”したと思われている一方で、復活に向けた動きもある。
かつて一世を風靡(ふうび)しながらも、時代の流れに抗しきれず、いつの間にか衰退していった飲食チェーンは多い。札幌みそラーメンを全国に広めた「どさん子ラーメン」もそうしたチェーンの1つだ。
最盛期の1970年代には1200店以上を全国に展開していたという。現在は姉妹ブランド「らーめん みそ膳」(29店)、「らー麺 藤平」(9店)なども合わせれば、194店が盛業中であり、6分の1くらいにまで減ってしまった(2019年5月26日現在)。
しかし、どさん子ラーメンは14年から始まったリブランディングプロジェクトにより再構築を目指している。海外に再進出してパリとロサンゼルスに出店するなど、次の50年を見据えた捲土重来(けんどちょうらい)を期している。
どさん子ラーメンはどのようにして全国を制覇したのか。そして、なぜ衰えたのか。復活へのシナリオは実現可能かを調べてみた。
東京でラーメン専門店は珍しかった
どさん子ラーメンは61年、東京・墨田区八広にギョーザと中華料理の「つたや 餃子飯店」として創業。ラーメンや長崎チャンポンなどは提供していたが、みそラーメンはなかった。ギョーザのほかには「炒菜肉糸(肉やさいいため)」「炸丸子(肉だんご)」「天津会飯(かに玉丼)」などの中華メニューや、親子丼・カレーライスといった軽食を出す、どこにでもある町中華として営業していた。ラーメン1杯の値段は70円だった。
創業者の青池保氏は商才に恵まれており、「つたや 餃子飯店」の屋号で、弟子に店の看板やメニューの使用権を認めるのれん分けを行って、数店を展開していたらしい。
ところが青池氏は、百貨店の物産展で偶然に出合った札幌みそラーメンに魅了された。東京のしょうゆラーメンにはない新しさがあり、日本人の味覚に合ったみそ味のラーメンはヒットするだろうと考えたのだ。当時、東京ではラーメン専門店の数は少なく、個人が営む食堂や町中華がいたる所にあった。一方、北海道では札幌を中心に「みそラーメン専門店」というスタイルが確立しており、人気だった。
青池氏は、みそラーメンなら東京でも専門店が流行する。誰もやっていないなら圧倒的に勝てると確信していた。独自に麺やスープの研究を重ねて、67年に墨田区両国に「札幌ラーメン どさん子」1号店をオープンした。
10年後には1000店に
東京のみならず道外でも無名の存在だった札幌みそラーメンだが、実際に食べた人からの反響はすさまじく、たった4年後の71年には全国にチェーンを拡大して500店を突破。10年後の77年には1000店に達した。
現在、日本最大のラーメンチェーン「幸楽苑」は全国526店(19年5月26日現在)なので、どさん子ラーメンがどれだけウケにウケたのか分かるだろう。
青池氏が成功したのは、米国のマクドナルドを見習ってFC(フランチャイズ)システムを取り入れたからだ。のれん分けでは店舗拡大に限界があると感じており、それに代わる仕組みを探していたところ、マニュアルを重視したマクドナルドの経営に着目。短期間にこれだけの巨大チェーンを構築できたのは、FC加盟店を募集して、一攫千金を夢見る独立志向のオーナーたちをその気にさせて教育し、統一されたメニューやデザインの店を効率的に展開したからだ。
みそは北海道・岩田醸造の赤味噌を使い、ラーメン用に加工。日清製粉から粉を仕入れて中太のストレート麺をつくりだした。地域ごとに事業所を設置して、電話1本で原材料をお店に配送する仕組みを整えていたので、FCオーナーはわりと簡単に商売を始められた。素人でも2週間の講習で技術が習得できるのを売りの1つとしていた。
ロードサイドで1人勝ち
マクドナルドが日本に上陸し、銀座に1号店を出店するのは71年のことだから、青池氏には先見の明があった。
日本初のFCチェーンとされるのは「養老の瀧」だが、そのFC1号店が東京・成増にオープンしたのはどさん子ラーメンが誕生する直前の66年。当時の養老の瀧は横浜を拠点に100店を出店しており、1000店体制を目指していた。
ハンバーガー店や居酒屋にできるFCシステムならば、ラーメン店でもできるという青池氏の目算は見事に当たったのだ。そのうえ、サンヨー食品が「サッポロ一番みそラーメン」を68年に発売したのも追い風となり、空前の札幌みそラーメンブームが60年代後半から70年代に到来。どさん子ラーメンはサッポロ一番みそラーメンと共に、このブームを牽引した。
どさん子ラーメンには、「ビジネス街型」「住宅地型」「ドライブイン型」「駅前立地型」という4種類の店舗モデルがあったが、最もインパクトがあったのはドライブイン型。当時はモータリゼーションがちょうど進んでいった時期で、ロードサイドが新たな商業地として注目された。
外食チェーンとしていち早くロードサイドに進出したため、競合がなく、ひとり勝ちするケースが大半だった。コンビニ、ファミレス、ファストフード店が普及していなかった時代に、地方の幹線道路や生活道路沿いにできたどさん子ラーメンは、ドライバーたちのオアシスとなった。
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