フリーソフトウェアとカトリック教義の驚くべき共通点(3/3 ページ)

» 2005年11月16日 19時33分 公開
[Marco-Fioretti,japan.linux.com]
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教会への技術的提言

 インターネットが全人類にとって重要な出来事であり、これを無視できないことは、カトリック教会も認識している。だが、私の知るかぎり、社会的コミュニケーションに関する懸念と勧告をソフトウェアやファイルフォーマット、コンピュータプロトコルにも反映させようという動きは、教会内にまだ(少なくとも公式には)ないようである。

 フリーソフトウェア運動は、意図的ではなかったにせよ、結果として、上に引用したすべての教会指針を満たすソフトウェア「機械」を生み出している。フリーのプロトコルとファイルフォーマット(例えば、OpenDocument)を使えば、社会的コミュニケーション手段についてカトリック教会の思い描いていた理想像は完全に実現される。正しい技術を選ぶだけで共通善が達成されるというものではないが、それを選ぶことは、少なくとも正しい方向への必要な1歩である。

 本稿を書きはじめてから、2人のキリスト教聖職者のことを知った。それぞれ独立に私と同様の結論に達した人々である。1人は、Matheteuo Christian Fellowship(バプテスト教会)のパリス牧師で、フリーソフトウェアへの切り替えを諸教会(およびその他の非営利団体)に呼びかけ、その移行を手助けする手引き書を何冊か出版している。そのうちの1冊、“Penguin Driven Church Office”(「ペンギンで進む教会事務」)は、ほとんど技術リポートと言ってもよい。中に「Richard ストールマン氏……は無神論者かもしれないが、ソフトウェアに関する彼の見解は、キリスト教神学的にうなずける点が多々ある。プロプライエタリソフトウェアは、隣人を助けようとする私の力を殺ぐ。隣人を助けることこそ、キリスト教信仰の礎であるはずだ」という記述がある。

 もう1人はイタリアのカトリック司祭、Don Paolo La Terra氏である。シチリアのラグーザ教区事務所でカトリック教育・文化・学校・大学関連の事務を管掌しているほか、幾つかの機関で教壇に立ってもいる。Don Paoloは自分のホームページで、「オープンソースの出現とその理念はきわめて福音的である」という確信を述べ、読者に1つの韻文を捧げている。その内容は、フリーソフトウェアの神学的基盤として十分なものではなかろうか。「私はその人の噂を耳にした。そして惜しみなく分かち合う……その人の富を私は隠さない」(「知恵の書」7,13)

 カトリック教会全体がこの呼びかけに従うべきだろう。EiIにあった「私的・公的セクターにおける断固たる行動により、デジタルデバイドを縮小し、最終的に消滅させていかなければならない」という一節を思い出してほしい。この目的に向かって、教会はフリーの(上で説明したFreeの)ファイルフォーマットとコンピュータプロトコルを公式に採用し、教会内の通信にも第三者との通信にもそれを使用すべきだと思う。実際的場面では、それは少なくとも次のことを意味する。

  • 世界中のすべてのカトリック機関で、オフィス文書にはフリーの世界標準であるOpenDocumentを採用する。

  • カトリック関係のWebサイトと公式の教会文書では、プロプライエタリなファイルフォーマットを避ける。公式コミュニケーションでも一切受け付けない。

  • カトリック関係のWebサイトがどのブラウザでも表示できることを確認する。

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