権利か公共か――過度な権利尊重が生む弊害オルタナブログ通信(2/3 ページ)

» 2011年05月20日 17時00分 公開
[森川拓男,ITmedia]

権利を主張してばかりでは停滞してしまう現実

 民主主義における「個人の権利」と、「公共の利益」は、時として相反します。

 たった一人の反対で前に進めなくなる、過度な「個人の権利」の尊重の弊害:永井孝尚のMM21


 稲川卓治氏「Godspeedな生活」が折々書いている商標についてのエントリーには興味深いものが多いが、商標登録:「介護」、お前もか! 〜企業理念を広く伝える「どうぞ、お使いください」という寛大さ〜には驚いた。一般用語として使っていた「介護」という言葉が、商標登録されているとは知らなかった。とはいっても、他者の使用を制限するものではないようだ。稲川卓治氏によると、「磯部社長は、『介護』を使用させてもらえないかとの問い合せに対して、”どうぞ、ご使用ください”と多くの企業、組織にその精神を広めていった」という。商標登録は何も、物を売らんかなといった「マーケティングを意識した」ものばかりではないということだ。

 商標登録は、他者に勝手に言葉や物などを使われないようにするための、いわば防御策としても使われる。もちろん、その使用料などによる収益も考慮されよう。商標権という権利が主張できるわけだ。

 現在、われわれはさまざまな権利が保障されている。永井孝尚氏「永井孝尚のMM21」のたった一人の反対で前に進めなくなる、過度な「個人の権利」の尊重の弊害にあるように、「軍国主義の行き過ぎた反省」から来たものかもしれない。しかし、このエントリー中でも引用された記事にあるように「ややもすると、一人の反対で前に進めなくなる袋小路に陥っていたのも事実」である。

 永井氏も、「ほぼ全員が賛成していたのに、一人だけが『私の事情を考えて欲しい! 困る!』と強硬に反対したので、進められなかった」という経験をした人が多いのではないかと述べて、「個人の権利、確かにとても大切です。ただ、それだけを金科玉条のごとく守って思考停止状態になると、全体が少しずつ不幸になってしまう」と警鐘を鳴らしている。「『個人の権利』と『公共の利益』の利害調整という難題から逃げずに、最適解を探す」ことが必要なのだ。

 加藤征男氏「「和」のソーシャルメディアを創りましょ! with UZIT :)」の浜岡原発問題をソーシャルメディアで解決したい「和」では、「首相からの浜岡原発停止要請」に関しての考察がなされており、「マスコミの報道を見ていると、『地元経済への配慮』がメインになっていますが、本当にそれで良いの」かと指摘。また、御前崎の石原市長による「今回の首相の判断は、地元のことを考えていない」という発言について、「本来は一番地元のことを考えていない発言になるはず」という指摘にも頷かされた。

 確かに、行政は目先のことも考えなくてはならない。しかし同時に行政の長は、長いスパンでどのような方向に持っていくのか考えていかなくてはならないはずだ。それが政治家の言動から見えてこないのが、不幸なのかもしれない。

辞めて責任が取れるのか?

 そりゃ辞めればご当人本人は気持ちがすっきりするだろう。が、それだけだ。辞めた後でその会議が相変わらず自分の信念と違う方向に行くのは許せるというのだろうか? じゃあ、それが許せる程度の信念なんてどの程度のものかと思う。

 自分の意見が通らないからと辞任するのは単なる自己満足じゃないのか:ナレッジ!?情報共有・・・永遠の課題への挑戦


 ここしばらくモヤモヤしていたことが、吉川日出行氏「ナレッジ!?情報共有・・・永遠の課題への挑戦」の自分の意見が通らないからと辞任するのは単なる自己満足じゃないのかというエントリーを読んで少しスッキリした。それは、「公的な役職に任じられ会議などで出した意見が反対多数などで通らないときに、抗議の意味で役職を辞す」ことに関することだ。吉川氏は、「ことが多くの人の生命の安全に関わることでさらには前例も無くこれからいろいろ調べて議論していかないと分からない分野であった時に『納得がいきませんので辞めます』というのはあまりにも勝手すぎる」という。筆者も同感である。

 吉川氏の指摘するように、「自分が信じていることが通らない」からといって「辞めてしまってはその意見を誰もその場に出せなくなる」のだ。

 テレビなどでいくらコメンテーターがいい提言を行っても、その人がそれなりの場所にいない限り、現実には何の影響も与えない。例えば、ようやく東電も認めたメルトダウンにしても、震災直後の段階でその可能性を指摘していた専門家もいたと記憶している。しかしこの2カ月間、(実際はどうか分からないが)メルトダウンの可能性について考慮された様子はなかった。

 つまり、「公的な会議では出席できる資格が限られている」のだから、「権利と権限を持っている者こそが行動すべき場面がある」わけだ。「それを自ら投げ出すというのはどうみても無責任」だ。

 そのような立場にせっかくあるのだったら、その内部から進めるべきではないだろうか。吉川氏は問う。「辞めた後でその会議が相変わらず自分の信念と違う方向に行くのは許せるというのだろうか? じゃあ、それが許せる程度の信念なんてどの程度のものか」と。

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