最近の「お笑い」における考察――大人目線と子ども目線の大きな違い萩原栄幸が斬る! IT時事刻々(1/2 ページ)

最近のテレビ番組は“目に余る”。番組の裏側にあるのは大人の事情が、子どもの人生を翻弄してしまうかもしれない。筆者の苦しい体験を交え、この点を考えてみたい。

» 2011年10月15日 08時00分 公開
[萩原栄幸,ITmedia]

 今回はどうしても気になっているテレビの「お笑い」番組について、筆者なりに考察したい。

いじめられていた

 「お笑い」番組に言及する前に、筆者の過去を紹介したい。筆者は中学時代、クラスの不良たちから目を付けられ、毎日のようにいじめられていた。待ち伏せに遭って、かばんを取られたり、下駄箱の靴を捨てられたりといったことや、トイレの個室でバケツいっぱいの水が上から浴びせられたこともある。最も怖かったのは、4階の教室の窓から落とされそうになったことだった。相手は「まあ、本当に落ちてもいいや」と、全力で筆者を落とそうとしていた。

 残念なことにクラスのほとんどの人は、筆者へのいじめに無関心を装っていた。「止めさせたい」と思ってはいたようだが、下手に関わると自分もいじめのターゲットになりかねいし、先生に密告しても得にならないという雰囲気があったようだ。筆者が同じ立場だとしても、大人に事情を説明して級友をいじめから助けることができるかどうかは分からないので、彼らを責める気持ちはない。

 いじめに対して、本当に「じょうだんじゃない!」と思うときがある。それは、教育評論家の一部の方や、トーク番組などでの一部のタレントが、「いじめられている方にも責任がある」と無責任に発言しているときだ。こういう意見は、部分的には正しい場合もあるかもしれないし、いじめにそういう要素があることも頭では理解できる。

 しかしそれを当事者である、今まさに「いじめられている子ども」(最近は子どもに限らないが)が聞いたら、どう思うだろうか。いじめられた経験のある筆者には絶望しか感じない。子どもが自殺した記事を読むたびに、その理由がいじめに対する無責任な発言にあったということは無いように願っている。このような情報を聞くたびに、筆者はつらい気持ちになる。

 筆者の経験を含め、「いじめられる」側に責任はほとんどない。これが事実である。筆者の場合ははっきりしていた。緊張したり疲れたりしていると、「どもる」のだ。これは精神的なものなので、確立された治療法はない。「努力しろ」と言われても、それは酷である。筆者はセミナーや講演を20年に渡って行っており、多い年には平均で週1回ペースにもなる。ここまで長い経験を積んでも疲れていると、どもってしまう。本当に仕方がない……。これまでにさまざまな対応法を試みたが、最後はやはり自分の心を治療できない限りは無理なのだ。それでも、経験でそれを軽くすることはできる。ある意味、ずる賢くなったのだ。

 大人になって、当時の級友に筆者の様子など尋ねてみたこともあった。冷静に分析すると、筆者のように「いじめられる」側の人は、本当に取るに足りないことが原因でその状況に置かれてしまう。「ちょっとだけ他人と変わっていた」というのが理由だ。例えば、制服のスカートの長さが他人より少しだけ長い(もしくは短い)、性格が少しだけ個性的だった、少しだけ太っている(もしくは痩せている)、身体的に弱いところがある(筆者もこの分類に入る)、トラブルを起こすことが多い――あとは、クラスを仕切る数人のきまぐれ次第である。

 「いじめられる人」は自己主張ができない、大人しい性格であることが多い。だから、目を付けられた次の日から「地獄の日々」が始まる。そして、本当に「いじめ」をする人間は、「いじめている」と自覚しているケースが少ない。こうした人間の中に、「自殺してしまうのではないか……」と考えられるような人間は殆どいない。この両者の断絶を埋めない限り、いじめはなくならない。それを埋めるのが大人(もしくは周囲の人間)なのだ。

 筆者の中学時代の担任は、当時としては珍しく本を出版しており、教育の世界では“先生の中の先生”と言われた人物であった。だが筆者がすぐにその担任を嫌悪するようになる事件があった。筆者が小さな勇気を出して、担任にこの「いじめられている」という事実を話したときのことである。本当に勇気がいる行為だった。

 そして担任は、クラス委員の女生徒にそういう事実があるかを問いただした。彼女は、「そんな事実はない」と答えた。それは当然だった。もし認めれば、彼女はそれまでクラス委員としての責務を全うしていなかったのを認めることになる。受験の内申書に書かれるのではないかと心配した彼女は、そう答えるしか方法がなかったのだろう。当時の筆者でさえ、そう感じた。彼女の発言は仕方がなかったのだと思う。

 だが、信じられなかったのは担任の言葉だった。

 「萩原君はいじめがあると言うが、○○さん(彼女)はないという。萩原君が嘘を付く理由はしらないが、君には失望したよ」

 そうして担任は逆に筆者を責めた。これには本当に傷ついたものだった。これから何があっても、絶対に担任には相談しない――そう心に誓った瞬間であった。どうして筆者がわざわざこんな嘘を付く必要があるのだろうか。論理的に考えれば誰にでも浮かぶ疑問である。クラス委員が何を言おうと、他の級友にも話を聞くなどして、事実を確認すべきではないだろうか。

 この担任は、筆者の問題が明らかに面倒になりそうなので、「なかった」「知らなかった」ということにしたかったのだろう。“一流の教育家”という面子を保ちたかったのだろうか。卒業後、筆者がその担任と一度も会っていないことはいうまでもない。

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