阪神大震災10年目に考えること、するべきこと(前編)何かがおかしいIT化の進め方(22)(2/3 ページ)

» 2005年12月06日 12時00分 公開
[公江義隆,@IT]

直下型地震の当日

 200X年X月XX日未明、地の底から突き上げられるような強烈な衝撃でたたき起こされた。同時に強い横揺れが来た。強い揺れの中ではまったく身動きはできない。十数分にも感じられた数十秒間の揺れが治まった暗闇の中を、手探りで懐中電灯を探す。そんな中でまた余震がやって来る。高層建築の長い周期の揺れはなかなか止まらない。はうようにしてしか動けない。

 パソコンをはじめ机上にあったものは、数メートル先まで吹っ飛んでいた。棚や家具類はほとんど倒れ、衣類、本、食器……あらゆるものが床に散乱していて足の踏み場もない。

 よくけがをしなかったものだと思いながら、家の中にこんなに多くのものがあったのかと驚く。ようやく堆積物の下から携帯電話を探し出して、方々に電話をしてみるが規制が掛かっているのか、まったくつながらない。地震後数時間経過し、停電でバックアップ用の電池が放電してしまったのか、FAX兼用の固定電話も使えない。情報源は手元のトランジスタラジオしかない。激震地は情報発信機能を失っている。外から現地入りした人が情報発信するまで現地の状況は報道されない。自分の周囲がどうなっているかを知るすべのない状況になる。

 動かない出入り口のドアに体当たりして開ける。今度は閉まりづらくなる。物騒だが余震が続く中で逃げ道の確保を優先することにする。水道栓を全開にしたが、風呂おけに1/3くらいたまったところで水は出なくなった。飲料水も食料もわずかしかない。オール電化の便利な住まいも、停電で150年昔に逆戻りだ。火が使えない分だけ、もっと都合が悪い。

 マンションの自分のいるフロアの被害はそれほど大きくないようだが、建物全体としてこれからも住める状態なのかどうかが心配になる。

 「こんなときに自分たちを残して会社に行くのか」という家族の冷たい目を背に、家を出る。

 電車は止まっているだろうと思い、自家用車で会社に向かう。道路は至るところに数十センチもの亀裂が走り、大きく波打っている。壊れた建物や倒れた電柱が道路をふさぎ、とても会社まで自動車では行けそうにない。家に戻り自転車で行くことにする。途中に立ち寄ったコンビニでは、ブラインドを半分下ろしたような感じの薄暗い店内で経営者らしい老夫婦が床に散乱した商品の片付けをしていた。

 「食料と飲料水はほとんど売れてしまって」といいながら、小型のペットボトルのお茶とスナックを奥から出してきてくれた。1000円札を出すと「釣り銭の小銭がなくなったからタダで持ってゆけ」という。1000円札を無理やり渡して店を出る。途中では水と食品を1000円でセット販売をしている店があった。情報ステーションになるはずのコンビニも、ガソリンスタンドもアルバイトの店員が出勤してこないのだろう。閉まったままだ。

 第一こんな時点で、まともな情報などありようがない。ガソリンスタンドの前は気のせいかガソリンのにおいがする。火災現場を迂回(うかい)し、ビルの壊れた窓から落下して散乱したガラスの破片やコンクリートの塊を避けながら、ひっきりなしに余震が来る中を頭の上を気にしてヒヤヒヤしながら進む。迂回して通った路地沿いの古い住宅のいくつかは倒壊というより、崩壊して形をとどめず、木の廃材と茶色の壁土の塊になっていた。そばに「この下に2人生き埋めになっています。よろしくお願いします」という張り紙がしてあった。無力な自分を責めるような気持ちになって気がめいる。

 液状化してぬかるんだ地面に苦労しながら、埋め立て地にある会社にようやく到着する。入り口で警備保障会社の守衛さんから「交代の人が来ていないが、家や家族が気になるので帰らせてもらう」といって鍵を渡された。

 普段勤務しているシステム開発グループが入っている古い方の建物は、かなり損傷を受けているように見える。中に入るのは危険かもしれない。サーバなどを設置している新しい方の建物が比較的安全そうなので、こちらにまず入ってみる。非常灯も消えた薄暗い室内に徹夜勤務をした派遣社員のオペレータがぼうぜんとした面持ちで座っていた。

 病人と幼い子供のいる人は先ほど帰宅させたという。システム運用グループの社員の誰かが出勤してくるまで何とかいてくれるように頼んで、取りあえず一緒に倒れた機器を起こし、床に散乱した書類や小道具を拾い集めることにした。何か作業をしている方が落ち着く。

 最近コストダウンのために切り替えたIP電話は機能しないし、携帯電話はやはり使える状態ではなく情報遮断状態が続く。「自家発電装置を備えた耐震設計のビルと聞いていたのに」などと思いながら派遣社員と一緒に作業を続ける。余震が来るたびに家族のことが頭をよぎり、気が付くと作業の手が止まっている。

 程なく、比較的近くに住む数人の社員が駆け付けてきてくれた。機器の動作確認はベンダに頼まないとできないという。電気が来ないとどうしようもないだろうと思いつつ、取りあえずベンダに連絡だけでもしておこうと思ったが、取引ベンダの連絡先のリストも、以前に本社から電子メールで送られてきた会社の緊急時の対応マニュアルも、ともに担当者の停電で使えないパソコンの中だという。傍らで話を聞いていた会計と事務処理を長年担当していた古参の女性社員が、支払い先の会計担当者のリストなら持っているという。得意のソロバンをいまでも手放さない人である。また、以前にIP電話化を進めたとき非常連絡用にアナログ電話を1つ残したという話を誰かがしていたという。

 なるほど、部屋の隅にほこりをかぶった懐かしいダイヤル式の黒電話が1台あった。受話器を上げると通話音が聞こえる。ベンダに順次連絡を入れてみる。やっとつながった多数のサーバを更新したベンダが、「担当者をすぐ寄こす」といってくれた以外は、「要請が方々から殺到しているのでいつどう対応できるか即答できない」という。もっともな話だと自分でも不思議なくらい冷静に応対する。ベンダも自分のところと同じような状況なのだろう。次に本社に連絡を入れてみる。若い担当者が出てきたがらちが明かない。程なく対策本部長の役員が「システム復旧はいつまでにできるか」と聞いてくる。直属の部長からは「状況を報告せよ」との電話が繰り返しかかってくる。「こちらだって何がどうなっているのかさっぱり分からないのだ。知りたければ自分で見に来い」と心の中で思う。

 昨今、効率化追求とやらで、自分の担当業務以外の情報はほとんど入ってこなくなっていた。セキュリティがうるさくなって、サーバルームに入ったのは数年ぶりだ。今日初めてブレードサーバとかいうものの実物を見た。

 この話は、10年余前の阪神・淡路大震災時の筆者自らの体験と、その直後に災害対策の抜本的見直しに際し、見聞きして回って得た話や検討過程で考えたことを基に、昨今の環境を加味して、いま、都市直下型の大地震が来ればこんなことになるのではないかと想像して書いてみたものである。机上の理屈で考える“あるべき”論を基に作ったマニュアルでは手に負える問題ではなくなる。この中から災害時の対策を考えるに際して、留意しておくべき要件を探ってみていただければと思う。

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