聴力を失っても頑張り続けたネスケサポート挑戦者たちの履歴書(138)

編集部から:本連載では、IT業界にさまざまな形で携わる魅力的な人物を1人ずつ取り上げ、本人の口から直接語られたいままでのターニングポイントを何回かに分けて紹介していく。今回は、瀧田氏のネットスケープ時代を取り上げる。初めて読む方は、ぜひ最初から読み直してほしい。

» 2012年01月11日 12時00分 公開
[吉村哲樹,@IT]

 1999年6月、瀧田氏は無事元気な男の子を出産した。出産の3時間前まで仕事を続け、出産翌日には早くも病室にPCを持ち込んでネットにつないで仕事を再開したという、同氏ならではのエピソード付きだが……。とにもかくにも、無事出産を終えた瀧田氏は、その後しばらくの間は奈良にある自宅で仕事を続けていた。

 しかし、東京から遠く離れた地では、仕事の効率にどうしても限界が出てくる。顧客と面と向かって話さないと解決できない問題もたびたび起こる。そこで出産を終えて半年ほどたったころ、瀧田氏は再び出産前と同じく、奈良−東京間の超遠距離通勤を再開する。出産前との違いは、以前はお腹にいた赤ん坊が、今度は腕の中にいること。そして、新幹線に替わって、より時間を節約するために飛行機を使って移動したことだ。

 具体的には、月曜の朝、赤ん坊を抱えて、飛行機でいざ東京へ。東京のホテルに着いたら、託児所に赤ん坊を預けてオフィスに出勤。そのまま金曜日まで都内に滞在して仕事をこなし、金曜の夜に赤ん坊を抱いてまた奈良の自宅まで帰る……。何というハードワークぶりだろうか! 瀧田氏の人並み外れたタフネスさがないと、ここまでやるのは無理だろう……。と思いきや、さすがの瀧田氏も無理がたたってしまい、遂に身体が根を上げてしまった。

 「子どもがインフルエンザを患って、それが私にもうつってしまったんです。高熱が出て、これはさすがにまずいと思ったので、東京で最低限の仕事だけを片付けて奈良の自宅に戻ったんですが、帰りの飛行機の中で耳をやられてしまったんです」

 奈良の自宅に戻った後、急きょ鳥取の実家まで行き、父親が医師として勤めていた病院で診てもらったところ、中耳炎だと診断され、鼓膜の切開手術を受ける。これで一件落着かと思いきや、そうは行かなかった。

 「まだ治り切っていないのに、仕事があるからと言って、実家から奈良の自宅に戻っちゃったんです。おまけに、子どもがミルクを飲めなくて、母乳を飲ませるしかなかったので、薬をそんなに多く飲めなかったんです」

 その結果、左耳の鼓膜が完全に溶けて無くなってしまったのだ! そのため、左耳の聴力が完全に奪われてしまった。急きょ、地元の耳鼻科に紹介状を書いてもらい、義理の兄が勤めていた東京の日本医科大学で鼓膜の再生手術を受けた。手術は無事成功したものの、鼓膜が完全に再生するまでには時間がかかった。

 結局、治療にはかなり長い期間を要した。現在では特に聴力に問題はないが、やはり100%元通りには戻らなかったそうだ。

 しかしそれでもなお、当時の瀧田氏は決して仕事を休まなかった。病院に通いながら、子育てをしつつ、ネットスケープのクライアント製品の販促やサポートに奔走する日々。

 「働くって、本当に大変ですよ」

 こう語る瀧田氏の言葉には、さすがに重みがある……。

 当時、瀧田氏の勤務先であるネットスケープ日本法人も、大きく揺れていた。本来であれば、米国本社が米AOLに買収されたタイミングで、日本法人もAOLの日本法人であるAOLジャパンと合併するところだった。しかし、AOLジャパンは米AOLとは出資が異なるため、ネットスケープの日本法人と一緒になることはできなかったのだ。

 そんな中、サーバ製品はサン・マイクロシステムズ(以下、サン)とのアライアンス体制に移行し、それに伴い日本法人のサーバ製品担当者もそのほとんどがサンに移籍していった。クライアント製品担当だった瀧田氏は、いわば宙に浮いた立場に立たされた。

 そして遂に2001年、ネットスケープ日本法人の閉鎖が正式に決定された。

 「悪いことって、いつもこうやって重なるんですよね……」


 この続きは、1月13日(金)に掲載予定です。お楽しみに!

著者紹介

▼著者名 吉村 哲樹(よしむら てつき)

早稲田大学政治経済学部卒業後、メーカー系システムインテグレーターにてソフトウェア開発に従事。

その後、外資系ソフトウェアベンダでコンサルタント、IT系Webメディアで編集者を務めた後、現在はフリーライターとして活動中。


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