苦心したコミュニティとの関係構築挑戦者たちの履歴書(141)

編集部から:本連載では、IT業界にさまざまな形で携わる魅力的な人物を1人ずつ取り上げ、本人の口から直接語られたいままでのターニングポイントを何回かに分けて紹介していく。今回は、瀧田氏のネットスケープ退職後の時期を取り上げる。初めて読む方は、ぜひ最初から読み直してほしい。

» 2012年01月18日 12時00分 公開
[吉村哲樹,@IT]

 2003年、Mozilla Foundationの日本支部であるMozilla Japanの設立準備を始めた瀧田氏。ここで同氏が最も腐心したのが、Netscapeのソースコード公開以来、国内で長く活動を続けていたオープンソースコミュニティと良好な関係を築くことだった。

 日本におけるMozillaのコミュニティは、「もじら組」が草分け的存在として知られている。Mozilla Japan設立前は、製品の日本語版へのローカライズやドキュメントの翻訳などの作業は、主にこのコミュニティのメンバーが中心となって行っていた。瀧田氏はMozilla Japanの立ち上げに当たり、このコミュニティに参加する技術者たちとの関係構築に最も気を配ったと言う。

 「それまでMozillaのコミュニティメンバーとして手弁当で製品のローカライズなどに尽力してきた人たちの中には、自分たちの取り組みの成果がMozilla Japanに移管されることに対して、不信感を募らせた人も当然いたと思います。でも、コミュニティあってのMozillaですから、『コミュニティのメンバーたちがハッピーになってもらうにはどうすれば良いのか?』ということを、とにかく一生懸命考えました」

 また、Mozilla Foundationが発足する以前の、開発が停滞していたころの轍を踏みたくないという思いもあった。そのころはオープンソース開発の形を採っていたとはいえ、ネットスケープという営利企業がコミュニティを運営していたことを嫌うエンジニアも多く、思うように人が集まらなかったのだ。今回は、そうした失敗を繰り返したくはない。

 「コミュニティの主だったメンバーには直接会いに行って、Mozilla Japanの活動の趣旨を説明し、理解を求めました」

 そして案の定、2004年7月のMozilla Japanの発足とともに、さまざまな批判がコミュニティ内で沸き起こった。しかしそんな中でも、瀧田氏はいつかは自分たちの真意が伝わるはずだと信じ、Mozilla Japanを前に進める。

 「私たちの思いは、コミュニティで皆がやっていることを可視化して、世の中に広めていきたいということ。当時はこれを、必ずしもメンバー全員には理解してもらえなかったかもしれませんが、これから態度で示していくしかないと思っています。当時は理解してもらえなかった人にも、いつかはきっと分かってもらえるものと信じています。それに、ブラウザやWebを巡る当時の状況を考えると、Mozilla Japan立ち上げのタイミングは『あの時しかない!』と考えていたんです」

 こうして瀧田氏が実働部隊の中心となって、Mozilla Japanは船出した。しかし、コミュニティとの関係性のほかに、もう1つ大きな問題が残されていた。運営資金だ。

 「組織を立ち上げて活動するには、多少なりとも費用が掛かります。設立時の拠出金は、喜多氏が当時社長を務めていたテンアートニ(現サイオステクノロジー)に出してもらったんですが……。お金って、すぐなくなっちゃうんですよね! お金って、勝手には増えないじゃないですか! なので、何かビジネスをやらなきゃいけないと思って、当時、会員企業を募ったんです。いろんな企業をまわって、賛同してくれるところから年会費をいただければ、と思ったんですが、当時ブラウザの世界は完全にIE一色でしたから、『今さらブラウザですか? うちはIEで良いですよ』という反応ばかりで……」

 しかし、そんな瀧田氏を窮地から救ってくれる大きな出来事が起こる。そう、Firefoxの大ブレークだ。


 この続きは、1月20日(金)に掲載予定です。お楽しみに!

著者紹介

▼著者名 吉村 哲樹(よしむら てつき)

早稲田大学政治経済学部卒業後、メーカー系システムインテグレーターにてソフトウェア開発に従事。

その後、外資系ソフトウェアベンダでコンサルタント、IT系Webメディアで編集者を務めた後、現在はフリーライターとして活動中。


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