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被災者を支える、地元ケーブルテレビの死闘 (後編)(3/4 ページ)

» 2004年11月15日 12時17分 公開
[小寺信良,ITmedia]

 どうもマスコミやカメラマンの意識の中には、「自分は透明だ」という感覚があるようだ。言うなれば、舞台の黒子のようなものである。

 例えばアーティストのライブをDVDなどで見たりすると、複数のカメラがステージにあるため、偶然カメラマンが写ったりもする。だが見ているわれわれは意識の中で、その存在を「見なかったこと」として消してしまう。実際に生でライブを見に行っても、収録用のカメラマンが自分たちの視界を遮ることがあっても、「しょうがないな」とその存在を無視している。

 自分たちはこのように扱われているであろう、という感覚が、現場に立つマスコミにあるのではないか。なんらかの許可をもらって腕章の一つもしていれば、自分は透明である、自分は一般人とは違う、だから何をやっても許される、という感覚に陥ってしまう。誰よりも良い映像を撮りたいという職業意識が働くのは、プロとしては仕方がないことだ。だがもちろん、現場を踏み散らかしてもいいわけはない。こっちは仕事で来てんだ、というのは言い訳にはならないだろう。

NCT前の通りも、人や車は少ない

 “人の生き死に”を娯楽扱いするやり方は、なにも現場に限ったことではない。最近テレビで放送される映画は、なにげなくパニックものが増えていることにお気づきだろうか。中には地震を連想させる内容があるといって放送を自粛したり内容を変更したりする番組もある中で、地震じゃなきゃいいんだろうと考える編成部もあるということである。防災意識を高めるといえば聞こえはいいが、しょせんは震災に便乗して、視聴率が欲しいのだ。

 新潟県は、民放地上波のネット局が多いところだ。全部の民放が見られるという点では、放送文化的には「首都圏」と言ってもいい。当然これらの映画も、被災者の目にも触れることになる。

 家の片づけで疲れ切って、余震におびえながらもようやく一息付ける時間に、そんなものが見たいだろうか。もちろん映画自体には、なんの罪もない。一つの独立した作品だ。だがそれをツールとして使うやり方が、どうも気に入らない。

 筆者がボランティアで編集している震災後の映像は、もしかしたら日の目をみることはないかもしれない。もともとケーブル局の映像であるから、地元の契約者しか見られないということもあるが、被災者の感情を考えると、そういった内容をいつ放送できるかというタイミングが、まったくわからない。みんな、今は一刻も早く忘れて、元の生活に戻りたいのだ。

 だがこれらの映像は、資料として後々誰かの役に立つかもしれない。逆に言えば、どれだけやってもお金になるあてもない仕事だから、最初から誰かがボランティアでやるしかないということでもある。

生きていくことは休めない

 翌日の夜7時、NCTではいつものように制作スタッフが集まって、明日の取材の割り振りを決める。今日は日曜日だが、生きることに休みがないのと同じように、それを支える彼らにも休みはない。放送制作部の伊能(いよく) 部長も避難所から出社してきたが、若い社員に追い返される。

 結婚したばかりの外国人の奥さんが、一人で避難所に残っているのだ。明日からの帰宅に備えて、暇なはずはない。もちろん若手社員もそのことを知っていればこそだ。

疲労の中、明日の取材の割り振りを決める会議が始まる

 NCTのスタッフは、何も特別な人間たちではない。数カ月前に入社した若い女性社員は、入社して早々こんなことになるなんて良かったんだか悪かったんだか、と戸惑いながらも、先輩たちの後ろにくっついて、訳も分からないままに機材を抱えて現場を走り回る。

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