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創造のサイクルを考える小寺信良(2/3 ページ)

» 2007年04月16日 08時00分 公開
[小寺信良,ITmedia]

許可は難しいのか

 もともと著作権法は、アイデアを保護しない。だから、オリジナルの映像作品を解きほぐして、そこに込められたアイデアを拝借することは、違法ではない。単純に表層を模倣するのではなく、核となるエッセンスを取りだして、さらに違う出自のものを混ぜ合わせながら、創っていくのである。

 しかし、オリジナルと限りなく同じであることに意味があるものもある。パロディやオマージュと言われる作品だ。オマージュは自分が勝手にデディケイト(dedicate:捧げる、献上する)する作品を取り上げるという主観的あるいは独善的なものに対して、パロディはそのオリジナルが広く知られていなければ成立しないという違いがある。

 それらは勝手にやってもいいのか、といわれると、どこで線引きするのかは難しい。自分で勝手に替え歌を作って口ずさむぶんには、まあ問題ないだろう。しかしそれを別の作品として広く発表したり、販売することで利益を得たりする場合は、問題になる。替え歌で知られる嘉門達夫氏は、替え歌をCD化する場合には必ず原作者に許可を取っている(関連記事)という。

 一方オマージュでは、オリジナル作品が何であるかを明示すること自体が、オマージュという表現方法と一体化している。もちろんこの場合も、商用の場合はオリジナル作者に関して許可を取ることが必要だろう。

 先日、韓国の歌手IVY(アイビー)の「誘惑のソナタ」という曲のPVが、「ファイナルファンタジーVII アドベントチルドレン」にそっくりだということで訴えられ、同国で放送禁止になったというニュースはご存じだろうか。現在でもこのPVはYouTubeで見ることができるわけだが、何も知らずに双方を見比べてみると、その類似性に驚くことだろう。

 被告である所属事務所は、これはオマージュであり、ビデオ内でも英文字幕でその事実を明記していたという。確かにオマージュという性格は満たしているものの、やはり商業芸術でダマテンでやっちゃうというのは、どうかと思う。

 もっともそれ以前に、放送禁止になった今もYouTubeで世界中の人が見ることができるという現状自体、放送禁止という措置にどれだけの意味があるのかと思う。おそらくこの映像を作った監督は、この訴訟でその実力を世界に知らしめることができたわけで、名声という意味では「焼け太り」である。

 ところでここで言う「許可を取る」とは、何もお金を払うということのみを意味しない。作者に直接会って、「使っていいですか?」「いいよ」というだけで、許諾になる。著作者がお金はいらんと言った場合、その件に関しての使用料請求権は喪失する。著作権は親告罪、すなわち著作者本人からの訴えがなければ侵害が成立しない法律なので、本人が納得して訴えなければ、そのままなのである。

 著作権が存続している作品を利用して別の作品を作るということは、もともとの話はそんなに難しくないのだ。難しいのは、著作者財産権を管理団体に譲渡してしまって、手元に財産権を持たない著作者が大勢いるという現状である。この場合、元を作った著作者の許諾だけではどうにもならない。

ライセンスが作品を支配する世界

 コンピュータの世界に目を向ければ、すでに現状の著作権の保護期間50年というのが、冗談のように長いことがわかる。ソフトウェアで50年保つものはおそらく現われないのではないか、というマイクロソフトの楠氏の指摘は、妥当であろう。

 なぜならば、進歩の速いコンピュータの世界では、まずプラットフォームであるCPUアーキテクチャやOSが、50年保たないからである。それで思い出したが、以前DECのAlphaというプロセッサは、2000何年かまでアーキテクチャを変えない、と宣言していたはずだ。ところが2000年を迎える前に、DECという会社自体がなくなってしまった。

 さて、もしそれらの変遷を乗り越えて移植されていくソフトウェアがあったらどうだろう。

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