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ポリフォニーを再解釈する現代ハイレゾ技術――「Auro-3D」でバッハは現代に蘇る!?麻倉怜士の「デジタル閻魔帳」(2/3 ページ)

» 2015年07月31日 16時18分 公開
[天野透ITmedia]

麻倉氏:今回も円形配置で弦楽五重奏をセットし、その上部にマイクを配置しています。「そこがサラウンドの本質」と澤口さんはおっしゃっていました。

こういったこともあって、残響の美しさ、いわゆるホールトーンは極力排除しています。これが3つ目の特徴で、この場合はとても大事なことです。

――ホールの響きが有名な大賀ホールで、わざわざ響きを排除するとは……クラシック音楽の録音ではありえない方針です

麻倉氏:大賀ホールの関係者は、美しい響きが入っていなくてガッカリですね(笑)。ですがこれには理由があります。演奏者型サラウンドは通常のホール型サラウンドと違い、各chから明確に楽器本体の音が出るので、ホールトーンがあると邪魔になるんです。

 特にソニー・ミュージックなどの大手レーベルは1500人以上も入るような大ホールではなく、客席数が800前後という大賀ホールくらいのサイズのホールで、室内楽やヴァイオリン、ピアノなどを録っています。それらは決まってホールトーンを綺麗に丁寧に録っているのです。それをユーザーに届けようというコンセプトです。もちろん大賀ホールでの録音もけっこうな数があります。

 でもミックさんは違います。「ホールトーン要りません」とキッパリ。そこがミックプロデュースの良いところなのです。録音はステージ上にセットされたノイマンのデジタルマイクで、ホール型の収録で用意される客席マイクは当然ありません。ですがそれでも大賀ホールらしいきれいで豊かな響きが、演奏の邪魔にならない程度には「それなりに」入っている、というところがいいですね。

――そこは熟練のレコーディング技術の妙ですね。チームに神が居るというのは伊達ではない、という感じでしょうか

収録の様子。中央に最低音であるコントラバス、外側ほど高音になるという変則的なセッティング。サラウンド再生時は中央で立っている入交氏の前あたりが定位となる

放射状に配置されたノイマンのデジタルマイク。通常の収録でこのような配置のマイクがステージ上にある光景はなかなか見られない

麻倉氏:4番目の特徴は、垂直サラウンドという新天地に挑戦という点です。今までのサラウンドは基本的に「水平方向へマルチch」でした。そこへ近年になって、縦方向に複数のchを追加したタイプが現れてきています。

――垂直サラウンドというと、Dolby Atmosなどの「縦方向にも音が広がる」というタイプですよね。確か、音の存在する位置を空間の中で明確に表現するオブジェクトベースの技術だったと記憶しています。

麻倉氏:現在、垂直サラウンド方式はDolby Atmos、DTS:X、Auro-3Dの3種類がありますが、今回はAuro-3D用のサラウンドセッティングで収録されました。

――DolbyとDTSはよく耳にしますが、Auro-3Dというのはあまり聞き慣れないです。どのような方式なのでしょうか

麻倉氏:Auro-3Dは、ベルギーのギャラクシースタジオで開発されたもので、映画を含めた作品がヨーロッパを中心に出ています。2LのBD-Audioにはこの方式でエンコードされたものがいくつかありますね。床、耳、天井の3レイヤーで構成されているのが特徴で、今回もそれに則って録られました。オブジェクトではなくこれまで同様のチャンネルベースです。

 Auro-3Dというのは、特にオーケストラの収録をするような、音楽スタジオから出てきたシステムなので「音楽をいかに音楽らしい音で立体サラウンドとして再生するか」という意図を持っています。DolbyやDTSなどの映画産業から出てきた垂直サラウンドとはそもそもの出自が違うのです。ちなみにDolby AtmosやDTS:Xは、今年秋までの新製品AVアンプにアップグレード対応で入ります。Auro-3Dはおそらく、その次の対応になるでしょう。

――ベルギーから出てきたというのも興味深いですね。DolbyもDTSも映画大国アメリカの技術なのに対して、Auro-3Dは西洋音楽の中心地であるヨーロッパの技術、という構図が見られます。

麻倉氏:今回のミックサラウンドは、音楽がポリフォニー構成という事が今までと違います。音楽の成り立ちにおいて「モノフォニー」「ポリフォニー」「ホモフォニー」という3つの構成パターンがあります。ここでしっかり音楽史を勉強しましょう。

 最初のモノフォニーは伴奏やハーモニーのない単旋律のみの音楽です。グレゴリオ聖歌などが有名で、教会の響きの中で歌うことで豊かなアンビエントが聴けます。ですが単旋律だけでは飽きてしまうということで、複旋律として5度上や3度上、5度下を当てるポリフォニーが次に出てきました。ポリフォニーはバッハを中心に洗練され、「フーガの技法」が最高峰に位置します。

――ここまでは基本的に和声を追求しない無伴奏音楽ですね。あまり規模を大きく出来ない教会音楽が主体だったということが、おそらく関係しているように思われます

麻倉氏:それから現代まで続くのが、機能和声を使った単旋律主体の音楽であるホモフォニーです。われわれがよく知る、旋律と伴奏という形式の音楽ですね。

――コード進行の理論が発展することで、より複雑な奥深い音楽が現れ、機能和声はジャズやポップスへ受け継がれるというわけですね。それが今回のお話にどう関係してくるんでしょうか?

麻倉氏:ホモフォニーの音楽を演奏者型の各チャンネルでやろうとすると、ある時のあるチャンネルは木管の旋律で、別のチャンネルは弦の伴奏といったように、音楽の構造上チャンネルごとに主従関係がはっきりと現れます。読んで字のごとく伴奏は旋律のお伴でなければならないので、特定のチャンネルから明確に鳴ってしまうというのはむしろ不都合です。これは2chで鳴らす、またはホール型で前からまとまった音楽を鳴らす方がよいでしょう。

 ところが出てくる音が全て旋律であるポリフォニーでは事情が異なります。音場を前方でつくる2chだと、音像がファントム(仮想像)となるサラウンド部の旋律線や音像間のつながりがよく分からなくなってしまいます。

――「どこからどの旋律が出ているか」という点が重要な表現になるポリフォニーでは、前からしか音が出ない2chステレオよりも全方位から音が出る演奏者型サラウンドの方が有用な情報が増えて、音楽を理解しやすいという事ですね。

麻倉氏:今回非常に画期的なのは「5つの声部で、なおかつそれが複旋律を持ちながら進行してゆく」という音楽の流れが極めて明晰に分かることです。

奏者のセッティングは、第1ヴァイオリンがリア左、第2ヴァイオリンがリア右、ヴィオラがフロント左、コントラバスがセンター、チェロがフロント右でした。通常前には高音部であるヴァイオリンが来るというセオリーがあります。ですが今回はフロントに低音が配置されているので、非常に驚きました。ミックさん曰く「低音をしっかり出したい。なので低音を前に持ってくる。そしたら高音が前に入る余地がない」だそうです。

――弦楽四重奏にわざわざコントラバスを追加したのも、低音をしっかりと鳴らすためでしたね。こういったところにUNAMASのバックボーンであるジャズの影響を感じます。

難曲に挑むにあたって、プレイヤーだけでなくエンジニアも楽譜を用意して音楽理解に努めた。プレイヤーとエンジニア間の意見交換も度々行われている

麻倉氏:曲の構成を詳しくお話しましょう。第4曲「コントラプンクトゥス(対比という意のギリシャ語)IV」では、左後方の第1ヴァイオリンがテーマを鏡写しの逆旋律で演奏します。すると音場が自分の斜め上部に広がってゆき、そこへ右後方の第2ヴァイオリン、左前方のヴィオラ、右前方のチェロが加わります。これらはゆっくりとした音なので、軌跡を持って天井方向へ進むのです。そしてある点で音が一気に接合します。

 響きがないというわけではなく、解像感の高い、凝縮された明確な響きがあります。あたかも氷の周囲からヒビが入って、ある一点で凝縮して一気に崩落するような感じです。そのような響きと複旋律の合成された立体音場感はまさに鳥肌モノのサラウンド体験でした。

 後から出くるコントラバスが通奏低音のようにドッシリした音をきかせる頃には、左のヴィオラや右後方の第2ヴァイオリンがテーマをどんどん発展変奏してゆき、オブリガートがどんどん入ってゆきます。「正に立体音場と個別旋律が織り成す、めくるめくバッハの絢爛たる世界がここにあったのだ!」大袈裟に聞こえるでしょうが、そのくらいの音響世界が繰り広げられていました。

――文字通り「音の世界」が構築されているようですが、あまりに非日常すぎて話だけでは全く想像がつかないです……

麻倉氏:第5曲「コントラプンクトゥス V」は、右後方の第2ヴァイオリンから旋律が始まり、次に右前方のチェロが続きます。さらに左後方の第1ヴァイオリンが入ると、音場がまさに三角形を描くのです。更にセンターのコントラバスが加わると、響きは台形になります。

 私は収録の様子を大賀ホールで聴いていました、と言っても客席からですが。録音中にステージ上で聴くことはさすがにできませんからね。当然ですが客席で聞く音とサラウンドとはぜんぜん違います。客席では2ch的な、大賀ホールの豊かな響きを存分に感じました。しかもステージ上は円形配置なので「濁らないお団子」のような、音が1つまとまっていて、それがアンビエントで響く、とても心地の良い音でした。ですが、ある楽器がテーマを弾き、それを他の楽器が追いかけて様々に展開するという録音の意図は、自宅のサラウンドで聴いて初めて分かったのです。

――旋律が図形を描くという体験はそうそうできないですね。これまではステージに立っているプレイヤーの特権であったサラウンド空間が、環境を整えることで聴衆に降りてきたというのが、非常に現代的だと感じます

麻倉氏:音場の作り方と曲の構成が100パーセント揃っていて、音楽の狙いと録音、再生のエコシステムに、サラウンドという芯が通っています。1スピーカーに1楽器というこの配置が、正にポリフォニーの精神をそのまま出していますね。そういう意味では曲のコンセプトに最高に合った録音方式が選択されていると思います。

 逆に言うと、このような新しい手法が出来て初めて解るバッハ世界の凄さというものがあるのです。ハイレゾにサラウンドという、ふたつの価値が加わって、この作品は大変な成功を収めました。これは正に「現代バッハのスタンダード」と呼ぶに相応しいでしょう。テクノロジーと音楽的感性で、新しいバッハを現代に花開かせたのです。

――クラシックは確かに昔に作られた音楽ですが、普遍的な価値に新たな解釈を加える事で、どんな時代にでも精神が蘇ります。これはあらゆる芸術の根源だと言えますね。

麻倉氏:バッハの演奏像は「ピリオドか否か」といった演奏形式・様式の違いで話題になることが多いのですが、バッハに合った録音手法が今出てきたということが、ピリオドに勝るとも劣らない、録音芸術として非常に重要なことです。実に素晴らしいですね。

ミキシングスペースでの作業を見守るスタッフ。極めて挑戦的な課題に対して、チーム一丸となった作品作りが行われた

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