News 2001年10月10日 03:25 PM 更新

AMDが開けたパンドラの箱――古くて新しいプロセッサ命名法問題(1)

AMDが打ち出した新しいプロセッサの命名法。しかし,かつて同じことをやったCyrixの経験を振り返ると,その試みはとても成功しそうにない。それでもあえてチャレンジするAMD。重い枷であるクロック神話から逃れることは,“互換ベンダー”にとって抗しきれない魅力を持つのだろうか。

 実際のチップ性能を反映する命名法を採用したAMDの新プロセッサ「Athlon XP」。だが,その名称を見て一種の既視感を感じた人も多いことだろう。

 今からもう4-5年も前のことになるが,Cyrixが「Pレーティング(Performance Rating)」による命名を積極的に進めたことがあった。例えば,「Cyrix 6x86 PR200+」という型番のプロセッサは,動作クロックは75MHzで,内部クロックはその2倍の150MHzだった。

 にもかかわらず,なぜ「200+」なのかというと,同世代のそのクロックの他社プロセッサ,つまりこの場合,IntelのPentium 200MHzと同等以上の性能を出す,という意味が込められていたからだ。

 クロック周波数に拠らない性能インデックスによる型番表記――AMDの今回の命名法と同じ理屈である。わざわざ「+」を付けているところなど,まったく同じ手法と言ってもいいぐらいだ。

 なぜ,AMDはこのような過去の亡霊を,また持ち出す必要があったのだろうか。

クロック数問題の起源

 初期の“Intel互換プロセッサ”は,コードレベルの互換からスタートした。言わば,中身も“ほぼ”同じモノだったから,クロック数表記の問題は生じなかった。

 しかも,90年代前半までのAMDなど互換プロセッサベンダーの基本戦略は,高価格で利幅の大きい最先端プロセッサはIntelの市場であることを認め,そのIntelが移行してしまった市場で勝負する,というものだった。コードレベルでの互換を図る以上,これは必然のことでもあったが,だから,彼らには,自社製品がIntel製品にクロック数で劣るかどうかを,気にかける必要さえなかった(当時,AMDはそれを「市場があるときAMDはそこにいる」戦略だと説明していた)。

 だが,IntelがPentiumプロセッサに移行したとき,その戦略は大きな曲がり角を迎える。高価格なPentiumプロセッサに対抗し,486互換プロセッサでシェアを奪おうとした戦略が,商業的に無残な失敗に終わったからだ。Windows95がユーザーのPentium移行を,予想以上の速さで促したのだ。時代に乗り遅れたAMDには当時,倒産は必至という見方さえあったぐらいだ。

 また,長く争われたIntel−AMDの法廷闘争の1つの帰結として,互換プロセッサベンダーはPentiumプロセッサ以降,バイナリレベルでの互換戦術が採れなくなった。互換ベンダー各社はこの世代から本格的な独自アーキテクチャ開発に走り,“Intel互換”から“Windows互換”の時代になった。

 AMDで言えば486互換の「Am5x86」がPentium対抗の互換プロセッサとして登場し,「Designed for Windows95」のロゴが入った。その次のMMX Pentium対抗の「AMD−K6」は「Socket7互換」であり,その後は次第にソケット/スロットさえもIntel互換から離れ,純粋なWindows互換へと向かっていく。

 こうしてIntelと同世代のプロセッサを,異なるアーキテクチャで出し,それをWindowsという同じプラットフォーム上で争うようになって以来,彼らはIntelと「クロック数」で争うという,根が深く,解決困難な問題を抱えることになってしまったのだ。

Cyrixの失敗

 その難題から逃れようとする最初のトライ――Cyrixの性能インデックスによる命名法は,結論から言えばユーザーに受け入れられなかった。混乱を招き,同社製品には何か信用できないというイメージさえついた。彼らが望んだ「Cyrixの200+はIntel製プロセッサの200MHzと同等」という受け取られ方よりも,「Cyrixの200+は200と書いてあるけれど,本当は150MHzで動いている」という見方の方が,むしろ広まってしまったのだ。

 彼らは次第に市場シェアを失い,まずNational Semiconductorに身売り,その後,VIA Technologiesに再度売却された。その原因はそれほど単純ではない。だが,この時の製品イメージについた傷が,その引き金の1つになったとは言えるだろう。

 なぜ彼らの思い通りに事が運ばなかったのか。推測だが,これにはおおよそ2つの理由があった。

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