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「この世は生きるに値するんだ」 「風立ちぬ」の後をどう生きるか 宮崎駿監督、引退会見全文(4/9 ページ)

» 2013年09月06日 23時41分 公開
[岡田有花,ITmedia]

アニメもテレビも見ない

――「クールジャパン」と呼ばれるような日本のアニメーションの世界をどのようにご覧になっていますか。

宮崎 ええ……、誠に申し訳ないんですけど、わたしが仕事をやるということは、一切映画を見ない、テレビを見ないという生活をすることです。ラジオだけ朝はちょっと聴きます。新聞はぱらぱらっと見ますが、あとはまったく見ていません。驚くほど見てないんです。

 ですからジャパニメーションというのがどこにあるかすらも分かりません。これは本当に分からないんです。予断で話すわけにはいきませんから、それに対する発言権は僕にはないと思います。

 みなさんもわたしと同じ年齢になって、わたしと同じデスクワークをやってたら分かると思いますが、そういう気を散らすことは一切できないんです。参考試写というかたちでスタジオの映写室で何本か映画をやってくださるんですが、たいてい途中で出てきます。仕事をやったほうがいいと思って。そういう不遜な人間なので、まぁ、いまが潮だなと思います。

引退会見する気は「さらさらなかった」

――あえて引退宣言をなさった最大の理由はどこにあるんでしょうか。

宮崎 引退宣言をしようって思ったんじゃないんです。僕はスタッフに「もう辞めます」って言いました。その結果、プロデューサーのほうからですね、「それに関するいろんな取材の申し入れがあるけどどうするか、いちいち受けてたら大変ですよ」という話がありまして。

 「じゃあ僕のアトリエでやりましょうか」という申し入れをしたらですね、「ちょっと人数が多くて入りきれない」という話になりまして、じゃあ、スタジオの「5スタ」というといころに会議室がありますのでそこでやりましょうかという話をしたら、そこもどうも難しいって話になって、ここ(都内のホテル)になっちゃったんです。

 そうするとですね、これは何かないと、口先だけでごまかしてるわけにはいかないんで、「公式引退の辞」というのを書いたんです。それをプロデューサーに見せたら、「ああこれいいじゃない」ということで、「じゃあこれコピーしてください」と。こんなイベントをやる気はさらさらなかったんです。それをご理解ください。

映画は「採算分岐点を超えれば、『よかった』で終わり」

――まず鈴木さんに伺いたいのですが、宮崎作品は商業的成功・芸術的成功、両方を収めましたが、宮崎映画のスタイルを表現していただけますか。また、宮崎映画が日本の映画界に与えた影響を解説いただければ。

鈴木 えっとですね……なんと言うんだろう、これは言い訳かも知れないんですけどね、そういうことはあまり考えないようにしているんですね、僕。

 どうしてかというと、そういうふうにものを見ていくと目の前の仕事ができなくなるんですよ。僕なんかは現実には、宮崎作品に関わったのはナウシカからなんですけどね、そこから約30年間、ずっと走り続けてきて、それと同時にですね、過去の作品を振り返ったことがなかったんですよ。

 それが多分、仕事を現役で続けるってことだと僕は思ってたんですよね。だから、どういうスタイルでその映画を作っているのか、ふと自分の感想として思うことはありますけど、なるたけそういうことは封じる。なおかつ、自分たちが関わって作ってきた作品が世間にどういう影響を与えたか、それも僕は実はあまり考えないようにしていました。これがお答えになるかどうか、そういうことです。

宮崎 ええ、まったく僕も考えてませんでした。採算分岐点にたどりついたって聞いたら「よかった!」。それでだいたい終わりです。

――(フランスの記者)さきほどイタリアが好きだという話がありましたが、フランスはいかがでしょうか?

 あの、正直に言いますね。イタリア料理の方が口に合います(笑)。クリスマスにたまたまフランスにちょっと用事があって行った時に、どこのレストランに行ってもフォアグラが出てくるんです。これは辛かったなという記憶があるんですけど。それは答えになってませんか? ああ、ルーブルは良かったですよ。いいところはいっぱいあります。けど、料理はイタリアの方が好きだっていう。いや、そんな、たいした問題と思わないでください(笑)。

 フランスの友人に、「イタリアの飛行艇じゃなくてフランスの飛行艇の映画を作れ」と言われたんですけど、アドリア海で飛んでたからフランスの飛行艇はないだろうと、そういう話をした記憶がありますけど。

 フランスは、ポール・グリモーという人がですね、「王と鳥」という名前になっていますが、昔は「やぶにらみの暴君」というかたちで、完成形ではなかったけれども、日本で1950年代にに公開されてですね、甚大な影響を与えたんです。特に僕よりも5つ先輩の高畑監督の世代には圧倒的な影響を与えた作品です。それは僕らは少しも忘れていません。今見てもそのその志とかその世界の作り方については本当に感動します。

 いくつかの作品がきっかけになって、自分はアニメーターをやっていこうというふうに決めたわけですから、その時にフランスで作られた映画の方がはるかに大きな影響を与えています。イタリアで作られた作品もあるんですけども、それを見てアニメーションをやろうと思ったわけではありません(笑)。

終わりまで分かっている作品は作ったことがない

――1963年の東映動画入社から半世紀を振り返って一番つらかったことと、アニメ作っていてよかったことを教えてください。

宮崎 つらかったのは本当にスケジュールで、どの作品もつらかったです。それから、終わりまで分かっている作品は作ったことがないんです。こうやって映画が収まっていくという見通しがないまま入る作品ばっかりだったので、それは毎回ものすごく辛かったです。つらかったとしか言いようがないですけど。それで、最後まで見通せる作品は僕がやらなくていいと勝手に思い込んで企画を立てたりシナリオを立てたりしました。

 絵コンテという作業があるんですけど、まるで新聞連載のように絵コンテを描いている……いや新聞連載ほどせっせとやってませんね、あの、月刊誌みたいな感じで絵コンテを出す。スタッフはこの映画がどこにたどりつくか全然分からないままやってるんです。よくまぁ、我慢してやってたなぁと思うんですが。そういうことが自分にとっては一番しんどかったことです。

 でもその2年とか1年半とかいう時間の間に考えることが、自分にとっては意味がありました。同時に、それでもあがってくるカットを見て、これはああではない、こうではないと自分でいじくってく過程で前よりも映画の内容についての自分の理解が深まるということも事実なんで、それによってその先が考えられるというふうな、あまり生産性には寄与しない方式でやりましたけど、それはつらいんですよね(笑)。とぼとぼとスタジオにやって来るというふうな日々になってしまうんですが。50年のうち何年そうだったかは分かりませんけど、そういう仕事でした。

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