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DTMの夜明けを告げた「ミュージくん」とPC-9801がいたあの頃立ちどまるよふりむくよ(1/2 ページ)

» 2016年07月04日 21時35分 公開
[松尾公也ITmedia]

 「母さん、辞令だ。刑事になったよ!」

 そんなセリフで始まる桜木健一主演の刑事ドラマで、「刑事くん」というのがあった。そのドラマに影響を受けたのではないかと密かに思っているのが、DTMという言葉を最初に使ったPC-9801用のDTMパッケージ「ミュージくん」。MIDI音源、MIDIインタフェース、ソフトウェアをバンドルした、1988年発売の製品だ。

photo ミュージくんのパッケージ
photo ぼやっとしてるが、これが我が家にあった「ミュージくん」
photo これは「刑事くん」

 DeskTop MusicでDTM。すでにこの時代にはMacintoshとLaserWirter、Aldus PageMaker、Adobe Illustrator、PostScriptの組み合わせにより、紙の出版物を個人が制作できる、DTP(DeskTop Publishing)という言葉が流行りつつあった。そのPをMに置き換えた、実にうまいネーミングなのだが、後に進出したビデオ編集も含めたDTMP(DeskTop Media Production)とローランドでは言い換えた。一般化しなかったけど。

 最初のDTM製品「ミュージくん」は、上位製品として「ミュージ郎」が登場し、しばらくのあいだ並行して販売されたが、そのあとで「ミュージくん」そのものは忘れさられていく。ぼくが買ったのは初代「ミュージくん」。当時、ローランドに高校時代のバンド仲間で親友が勤務しており、社販価格で手配してもらったのだ。彼がローランドに就職するときには「MIDIはこれこれこういうもので、シンセとつなげるとこういうメリットがあって」みたいなことを教えてあげたので、そのお返しをしてもらったわけだ。

 AMDEK CMU-800の回と同様に、ここでもやはり詳しい話は藤本健さんのDTMステーション「DTMのルーツ、1988年に登場したミュージくんの衝撃」に書かれているので、そちらを参照していただきたい。

 概略は藤本さんにおまかせするとして、ぼくは当時どんなPC環境であったかというところの説明から。

1988年当時、日本のPC業界はどんな状況だったか

 長男が生まれたあと、妻が勤務していた、if800とかを作っていた電機メーカーでは出産祝い金というのをくれたので、それを使ってPC-9801VX2を購入。CPUはV30というIntel 8086プロセッサのNECによる互換チップとIntel 80286のデュアル構成になっていた。その頃はCG雑誌の編集部にいた関係で、24ビットカラーの表示をするためのフレームバッファボード「写像」を買ってCバス(PC-9800シリーズの拡張スロット)に装着したりしていたのだが、そこにもう1枚加わったのだ。

 このMT-32で、ある長い曲の耳コピをやっていた。だが途中でPC-9801のメモリ容量(640KB)に収まらなくなってしまい、より大容量メモリが使えるコンピュータであるMacintosh Plus(4MB)を秋葉原のイケショップで、高性能なMIDIシーケンサーPerformerとMIDIインタフェースを千駄ヶ谷のPACIFIC WAVESで購入し、そちらにデータを引き継いだ。

 このとき、妻には「Macがあればもっといいところに就職できるから」と言い訳したのだった。

 当時、PC-9801のOSはMS-DOSであり、アプリケーションで使えるメモリはメインメモリの640KBの一部に制限されていた(I/OデータやメルコのRAMディスクで使えるアプリもあったが例外的)。Macintosh(いまはMacって呼んでるんだって?)と、その上で動くアプリはちょっと次元が違う感じだった。

 Macintosh Plusの9インチという小さなモノクロの画面ではあったが、MIDIインタフェースはPC-9801のように拡張ボードではなく、高速なシリアルインタフェースRS-422に差すだけでよく、MIDIインタフェースの価格もそのぶん安かった。しかも分解能は98版を大幅に上回るため、細かいニュアンスを伝えることができた。

 それでも、PC-9801で動くミュージくんソフトはよくできていた。上位ソフトのBalladeと同じく、ダイナウェアで開発されたもので、楽譜のイメージのまま音符を五線譜の上にマウスで置いていく、高度なグラフィカルユーザーインタフェースを採用していた。ダイナウェアはDynapersという、建築用3Dパースソフトで知られていたが、Macintoshと同じくPARC ALTOの子どもたちであった、NEC PC-100用のペイントソフト「アートマスター」の開発を行うなど、先進的なソフトハウスだったのだ。のちにPC-100を中古で入手したぼくは、このアートマスターのポップアップメニューがとてもよくできているのに感嘆した。これはMac用アプリ以上の出来じゃないかと。

 当時、Macintosh以外のパソコンでGUIを実現するものとしてはMicrosoft Windowsの初期バージョン、Digital ResearchのGEMがあり、その2つを朝日新聞社のムック向けにレビューしたのだが、とくにWindowsは上下、左右の分割しかできず、時計などのアクセサリがいくつかあるだけで実用性がまるでないと辛口評価した。

 PC-9801の時代については、故・富田倫生氏の「パソコン創世記」が見事なドラマとなっているので、この頃を知る人も知らない人も必読だ。@ITに転載されているので、そちらで読んでもいいし、その後のコラムをパソコン雑誌「パソコン・マガジン」(ぼくがその後、Macが使えると吹聴して日本ソフトバンクという名前だった会社に入り、最初に配属されたのはこの編集部だった)で連載したものをまとめた「青空のリスタート」と併せて、富田氏が立ち上げた青空文庫で一気に読むのもいいだろう。

 最近では、マイクロソフト元会長の古川享氏が「僕が伝えたかったこと、古川享のパソコン秘史」という回想録を出版されているが、これもまたおもしろい。音楽ネタはほとんど出てこないけれども。

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