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妻の実家でOmoidoriした空白の18年と失われた色立ちどまるよふりむくよ(2/3 ページ)

» 2016年07月15日 06時43分 公開
[松尾公也ITmedia]

欄外コメント、取材でつながるリンク

 産湯につかった写真に始まるこのアルバムは、ほぼ時系列に、妻の成長を記録している。写真を見ていくと、妻が幼少時について話していたこと、義母がうっすらと記憶していることと、義父のキャプションから少しずつリンクが形成されていく。

 「わたし、実は渋谷生まれなの。日赤病院で生まれたのよ」と妻は得意げに言っていたが、その理由は「確実に、安心できるところで産みたかったから」と義母。ちゃんと愛情があるじゃないか。このアルバムには優しい眼差しで赤ん坊の妻を見ている写真も何枚かある。義母はいまは妻のことを、ときどき話しかけてくれる、神様みたいな存在と感じているらしい。

 アルバムを引き取って自宅でスキャンするのでなく、その場で撮影していくメリットはこういうところにある。疑問が生じたら、その当時を唯一記憶している義母に聞くことができるのだ。「この制服は幼稚園ですよね。渋谷幼稚園?」「うん、そうそう」と、このスモックの写真は幼稚園のときだということがわかる。この幼稚園には2年間通っていたというのもわかった。

photo 右下が幼稚園の頃の妻

 義父のキャプションはとても貴重で、日時や、生後2週間とか、100日とかアルバムの欄外に書かれている情報のおかげで多くの写真の撮影日や場所が特定できた。例えば、妻が遊んでいる2枚の写真が残されている美竹公園はいまもある。なんでもマイケル・ジョーダンが寄贈したバスケットボールコートがあるらしく、それはジョーダンコートって呼ばれている冗談みたいな話。「バスケ得意だった?」って妻に聞きたい。

photo 美竹公園で遊ぶ

 義母は「ちょっとした買い物をするのにも坂を上り下りしないといけなくて大変だった」と言ってたけど、妻の一家が住んでいた国鉄アパートのあった渋谷区美竹町3番地は、今では高層ビルになっている。

 寡黙だった義父は60歳で他界し、ほとんどその頃の話を聞けなかったのだが、アルバムを通して、娘に注いだ愛情が伝わってくる。妻からは東京オリンピックで肩車してもらって国立競技場を見たとか、青山通りを越えて銭湯に行ったとかを聞いていたが、本当にいろんなところに連れて行かれて、写真を撮られていたんだなってのもわかる。JRを早期退職後、渋谷の近く、青山墓地のちょっと先に個人事務所を構えたのは懐かしさもあったんだろうなと今になって思う。

 こういうキャプション、書き込みのあるアルバムってわりと多いんじゃないかな。Omoidoriの場合、自動トリミングにするとそうした情報が抜け落ちてしまうので、トリミングをオフにしなくちゃいけないのだが、いちいち設定画面に戻るのももどかしいので、撮影画面でオン・オフできるとうれしいのだけど。

 このときは、2時間で300枚の写真をOmoidoriしたのだが、フル充電してあったiPhone 5cはバッテリー残量が20%までになった。1枚の撮影につき必ず2回フラッシュを焚いているのだから、そりゃあなくなるの早いよね。まだアルバムはたくさん残っているけど、また来ればよいわけだし。

photo 渋谷小学校入学のときの写真というのが手書きキャプションでわかる
photo おそらく同じアパートの男の子と
photo 時間切れでスキャンしきれなかったアルバムたち

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