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開発者の「記者イジメ」に遭いながらもそのマシンが欲しくなった、その背景にある熱い物語【新連載】西川善司の「日産GT-Rとのシン・生活」(1/4 ページ)

» 2021年10月23日 08時00分 公開
[西川善司ITmedia]

 筆者は、コンピュータやITに関連した映像技術に関する執筆記事が多いが、実際のところ、結構なクルマ好きである。

 といっても、スポーツカーにしか関心がなく、実際に所有した車もそっち方面ばかり。しかも、所有した1台をかなり長期にいじって研究する傾向だったため、その知識は、スポーツカー方面に偏ってしまっている。それゆえに、いわゆる自動車評論家的な活動についてはカバージャンルが限定的なものとなっている。

 筆者が書いている自動車関連の記事は、車両本体に関することよりは、ホイールやカーナビなど、アフターパーツ系が多めである。最近では、IT系に詳しいということから、自動運転技術に関連したAI系の話題を任されることも増えてきてた。

 たまには、やはり車両本体をテーマにした記事を書きたいと思っていたところ、うれしいことにITmediaからのゴーサインが。しかも、連載の形態で始められるということで、幸せ気分いっぱいである。

 それにしても、この突然の連載開始のきっかけはいったい何だったのか。気になる人も多いことだろう。これについては、記しておく必要があるかもしれない。

 実は、筆者は今夏、日産GT-Rの最終モデルの1つともうわさされている、日産「GT-R nismo Special Edition」をオーダーしてしまったのだ。

photo GT-R nismo Special Edition

 当然「頭金+ローン払い」である。しかもローンはかなり長期の!

 ITmediaは、おそらく、筆者のこうした漢気あふれる挑戦精神を応援する意味もあって連載の機会を与えてくれたのだと思う。

 というわけで、何回続くか分からないが、今回から始まる「日産GT-Rとのシン・生活」をよろしくお願いいたします。

西川善司の愛車遍歴

 この連載タイトルは、以前、他誌で持っていた連載の「精神的続編」の意味合いから付けてみた。

 初回は、このあたりの事情も含めて、筆者自身の自動車遍歴的な話もしたいと思う。

 筆者が初めて自動車を購入したのは学生時代の20代頭。1990年代である。きっかけは「友人たちが車を持ち始めたから」というシンプルな理由からだった。スポーツ系の車種を選んだのも、友人たちがみな「S13シルビア」「Z32フェアレディZ」などの2ドアクーペに乗っていたから。そう、周囲の影響を受けたというよくある話だ。今でいうと、人生最初のスマートフォンがiPhoneかAndroidか……どちらになるかのきっかけと似たような話である。

 さて、当時はスマートフォンもないわけで、実家住まいであれば衣食住の心配なし。月々に自分が支払うのは国民年金くらいのものだったので、当時の若者は親を説得して保証人になってもらえれば200万円台の車は比較的容易にローンで買えることが多かった。

 筆者はといえば、その頃、既にソフトバンク系のパソコン誌「Oh! X」(旧Oh! MZ)で執筆もしていたし、大学の夏休みなどの長期休暇は市販ゲームソフトの移植作業を個人で請け負っていたこともあって金回りはかなりよかったので、現金一括で購入した。ちなみに、ローンなしで購入できたのは後にも先にもその最初の車の時だけである(笑)。今思うと、実家住まいとは、偉大なひとときであった。若い人は、このモラトリアムなライフタイムを有効に生かしていただきたい(笑)。

 筆者が最初に買った車は、ホンダの「プレリュード Si VTEC」(BB1型)だった。ホンダ車となった最大の理由は父親の勤め先がホンダだったため。実家の車庫にホンダ車以外を停める許しが出なかったのである。

 車種としてプレリュードを選択した理由は、既に友人にインテグラ(DA8)、シビック(EG6)、CR-Xデルソル(EG2)などのオーナーがいたため。ホンダ縛りのスポーツ系車種だと、あとは800万円超(当時)のNSX(NA1)しかなく、さすがにこの価格帯は無理だったので、なかば消去法でプレリュードになったのである。

 当時の筆者自身の本心でいえば、トヨタのスープラ(A70)が欲しかった。2000ccモデルであればプレリュードとほぼ同じ価格帯だったからである。

photo 筆者の最初の愛車、ホンダのVTECエンジンにより2200ccエンジンで200馬力を発生していた「プレリュード Si VTEC」(BB1型)。当時の前輪駆動車としてはかなりのハイパワーモデルだった

 プレリュードは、VTECエンジンは搭載されていたものの、どちらかといえばラグジュアリークーペ的な位置付けで、厳密にはスポーツカーとは言いづらく、実際、不人気車種となった。そのため、アフターパーツはホンダのワークス的な存在である「無限」からしか発売されず、これまた選択肢なしの状態。ただし、無限製のパーツは、地味ながらよいものが多かったので、オーナーになってからは、適当に無限のパーツでカスタムして人並みに自分のプレリュードを楽しんでいたように思う。

 その後、親元から離れたこともあり、ホンダ車縛りからも解放され、2001年にマツダの「RX-7」(FD3S/6型)へと乗り換えている。

 RX-7は、スポーツカーのカテゴリーではかなりの人気車種で、アフターパーツも非常に数が多く、ほとんど毎日、気になるアフターパーツのカタログを眺めては愛車に取り付けることを夢想していた。

 結果的には累計して車両価格分くらいを投資してカスタマイズ。足回り、吸排気、冷却系、エアロを一通りカスタマイズして、主に筑波サーキットでのスポーツ走行を楽しんでいた。馬力的には340馬力くらいのブーストアップ仕様だったが、エンジンを3基載せ替えるくらいには走り込んだ。

photo 筆者のかつての愛車、マツダ RX-7。エアロはマツダスピードのR-SPEC。ホイールはレイズGram Lights。ブレーキはインチアップしたローターにAP RACINGの4ポットキャリパーを装着。サスペンションはRE雨宮 DG-5 RE雨宮スペック。今思えばかなり硬派なカスタマイズだった

 このままずっとRX-7に乗り続けるつもりもあったのだが、2010年の10月頃に、とあるクルマと衝撃的な出会い果たす。

 それが日産GT-Rだ。

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