「マイルドヤンキー」論への違和感 “再発見”する東京の視線と、大きな物語なき後のなにか(1/5 ページ)
大阪で起きた「ボンタン狩り」が話題になりもする2014年、注目を集めるワードが「マイルドヤンキー」。だがこの言葉に作家の堀田純司さんは違和感を表明する。隠然たる「日本のリアル」を東京の視線が勝手に見失い、勝手に再発見した気になっているだけではないか。
リアリティ
このところ「マイルドヤンキー」という言葉が注目を集めているが、私はこれにどこか違和感を覚えてきた。「そうした新たな社会層が台頭している」と言われるのだが、私は思うのである。「それってもしかして、日本の平常運転では?」と。
マイルドヤンキーについて、たとえばNHKの報道番組ではこのように解説していた。
- 地元志向 世界は半径5キロ
- 車、酒、タバコ、パチンコが好き
- 仲間を大切にする
- 礼儀正しく優しい
こうした社会層が台頭し、今や若者の間で一大勢力となっているというのだが、よく考えてみるとおかしい気がするのである。
- 地元志向 世界は半径5km
──地元志向でなぜいけないのだろう。みんながみんな、東京に憧れて上京するべきなのだろうか。
- 車、酒、タバコ、パチンコが好き
──これらはみな戦後日本のごく一般的な大衆娯楽のはず。ちなみに私だって車以外(免許を持っていない)どれも嗜んできた。
- 仲間を大切にする 礼儀正しく優しい
──なにか問題でも?
要するにこれは単に「ごく普通の地方在住者」を指しているだけではないのか。それとも「地方出身者は、みな上京志向で、ハイソな娯楽を楽しみ、仲間は裏切り、傍若無人な人間にならないといけない」というパラダイムでもあるのだろうか。
いや、本当のところわからないでもない。普通の生活者と「ヤンキー」は違うということなのだろう。
たとえば、中学高校の当時の先輩後輩関係を、大人になっても維持しているような序列意識の強さ。地元の伝統や祭り、そして仲間や家族、ジェンダーを大切にするなどの保守性。そしてなによりも、口舌の徒をどこか胡散臭いとして信用せず、昔ながらの身体的な接触に重きをおく心。すなわち「タイマン張ったらダチじゃあ!」というメンタリティ。
こうした「ヤンキー体質」を持ち、かつ、反社会的ではない層が台頭しているというのだろう。しかし、私は思うのだ。それが今も昔も変わらず、もともと日本のリアリティなのであると。
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