電子書籍ビジネスに一石を投じる「太陽系 for iPad」本を売るのではなく、物語を伝えること(2/2 ページ)

» 2011年08月31日 13時57分 公開
[林信行,ITmedia]
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“非デジタル系”若手編集者が道をひらいた

「太陽系 for iPad」の著作権の項にProducer for Faber and Faberとして名前が挙がっているヘンリー氏(Henry Volans)がタッチプレイスに連絡を取ったのが始まりだった

―― 日本の出版社には、なかなかデジタルを理解する人がおらず、いい電子書籍が出せていません。フェイバーには優秀な人材がいるんですね。

チャウン フェイバーは従業員70人の会社なので従業員を1つの担当から別の担当に変えるといったことも非常にやりやすかったんですね。

 同社でこれを手掛けているのは、紙の本の時代から私の担当をしているヘンリー・ヴォーランという非常に若い編集者です。彼は“ペーペー”で何の役職もなかったのですが、ある時フェイバーの社長から「お前をデジタル出版部門のトップに任命する。何をやったらいいかも含めて、すべて自分で考えてくれ」という辞令を受けました。

 彼は半年ほど途方にくれ、何をしたらいいのか分からずにいましたが、あるとき彼はタッチプレスに連絡をとり、そこからすべてが始まりました。このペアはたくさんのアプリケーションを生み出しました。

 まず、英国の人気コメディ番組と連動した「Malcolm Tucker: The Missing Phone」というアプリケーションを出したところ、これが非常に話題になり、BAFTA賞(英国アカデミー賞)を受賞しました。出版社が映画・テレビ業界向けの賞を受賞するというのは、まったく変なことでしたが、これがフェイバーにも新しい道のきっかけを与えました。

Malcolm Tucker: The Missing Phone

 ただ、フェイバーはビジネスの核は変えていません。彼らのビジネスの核は、本を出して流通することではなく、人々に科学の物語を伝えることだったのです。そんな彼らにとって、電子書籍は従来の紙に加わる新しい伝達手段の1つだと気がついたのです。

 いずれにせよ、この成功がきっかけでヘンリーは、フェイバー・デジタル・パブリッシングという新規事業を率いるようになりました。

 フェイバーは非常に抜け目がない企業で、確かにリスクを取ることはとりましたが、そのリスクに対しては、そもそも失っても大丈夫な額のお金しか賭けていませんでした。「太陽系 for iPad」にしても、フェイバーの側の出資額は7500ドルほど。彼らは非常に慎重に振る舞って、今の成功を掴んだのです。

―― いきなり最初から成功していたなんて、ヘンリーさんはデジタル通なんですね。

チャウン いえ、ヘンリーはまったくデジタルパーソンではありません。ただ、彼は非常に慎重な人間でした。昨今の出版社は、書籍のデジタル出版について、大げさな売り込みを頻繁に受けていますが、彼はそれを真に受けない、非常に地に足の着いた人物だったのです。彼はいろいろな事柄に深い洞察を巡らせる人物です。

 彼のそうした性格がフェイバーにとって大きな恩恵をもたらしたのです。彼のおかげでフェイバーは数々の賞を受賞し、商業的にも成功し、そして新しい道を切り開けたのですから。

―― 実は私もよく出版社で講演をするのですが、そこでよく「馬鹿正直にアプリケーション開発者の売り込みを信じないでほしい。読者が心地よくストーリーを読めるように、字詰めや紙質にまでこだわってきた出版社のノウハウがまずあって、それに従うアプリケーションを作ることこそが正道で、ただページをめくる機能だけ作り、そこに無理矢理、書籍のデータを流し込むのは本当の書籍作りではない」と話をしてきました。

チャウン まったく同意します。出版社のビジネスの核は、それがフィクションであれ、ノンフィクションであれ、ストーリーを伝えることにこそあります。「太陽系 for iPad」もその点を重視し、ただ美しいイメージに説明文を添えただけのものではなく、ストーリー主導のアプリケーションとして仕上げました。

 私たちは百科事典を作りたかったわけではありません。「太陽系 for iPad」が目指したのは百科事典ではなく、ストーリーを伝えること。フェイバーもタッチプレスも、その点を非常によく理解してくれていました。

世界に散らばったスタッフ

インタラクティブな仕掛けを持つ「元素図鑑」

―― タッチプレスとの仕事をどんな風にご覧になっていますか? 以前、「元素図鑑」についてタッチプレスのセオドア・グレイ氏をインタビューしたとき、彼は電子書籍を作る際に、「もし、この本がハリーポッターの学校の図書館にあったらどんな本であるべきか」を考えながら作っている、と聞いたのが非常に印象的でした。

チャウン 「太陽系」も、まさにそんな作り方ですね。タッチプレスの方々はその魔法を実現するためにあらゆる努力を惜しみません。例えば今回の本では、何かをタッチした効果音のためだけに、それ専門の会社に外注したりしています。

 タッチプレスの取締役の1人にスティーブン・ウォルフラムがいます。算術記述言語Mathematicaを発明したロンドン出身の人物で、億万長者の方ですが、「太陽系」のアプリケーションはiPad上で動くようになる前に、まずは一度、彼がMathematicaを使ってシミュレーションされています。

 1つの本を作るためだけに、非常に大勢の人が関わっています。しかも、その制作者たちがみんな、世界中に散り散りになっているのも面白いですね。南の島に住んでいる人もいれば、アメリカの人も、イギリスにいる人間もいて、それらがすべて、こうやってテクノロジーを使ってつながって協力しているのです。

―― スタッフは総勢、何人くらいいたんでしょう。

チャウン 25人くらいでしょうか?

―― 実際に顔をあわせたのは?

チャウン う〜ん、5、6人といったところです。コンピューティングは私にとってはミステリーで、まったくわけがわかりません。なので、プログラムなどを担当したスタッフとは直接やりとりすることがありませんでした。

 本の製作においては非常に珍しいことですが、我々にはプロジェクトマネージャーがいたんです。彼はイングランド南部に住んでいるウィンドサーファーで、彼がすべての進行をうまくまとめてくれました。実際、日本語版の開発における糸川氏とのやりとりも彼が務めてくれました。

 彼は私やビジュアルイメージを担当している人たちの進捗を管理してくれる一方で、私は最後まであうことがなかったプログラミングなどを担当している人たちとのやりとりもすべて管理してくれました。

―― チャウンさんは、ロンドンのご自宅で本を書かれていたんですか?

チャウン いえ、実はこのアプリケーションの文章のほとんどはベーカーストリートのカフェで書きました。回りの人たちはみんなノートPCで仕事をしているのに、私はノートと鉛筆で本の構成や元原稿を書いていました。

 ベーカー街のあのカフェで、おそらく最も先進的なデジタルブックを書いている私が紙のノートパッドと鉛筆を使っていたというのは、奇妙なことですね(笑)。

(→後編に続く)

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