謎のじゅもん“チッカチタン”をとなえた!――「CONTAX T3 チタンブラック」矢野渉の「金属魂」Vol.20

» 2011年10月03日 14時00分 公開
[矢野渉(文と撮影),ITmedia]

マニアの不毛な争い、終止符を打ちたいが……

 2001年、夏。発売されたばかりの「CONTAX T3 チタンブラック」を買おうか否かと、僕は新宿の家電量販店の店頭で悩んでいた。デジタルカメラの台頭でフィルムカメラの先行きが怪しくなってきたこの時期に、決して安くはないこのカメラを手に入れる意味があるのだろうか? 触って電源を入れてファインダーをのぞいて、と商品知識を増やすほどに迷いも深くなる。

 ことの起こりはこのT3の前モデル、「CONTAX T2」にあったのだ。その10年も前に発売されたT2は「高級コンパクトカメラ」というジャンルを確立した名機である。ロングセラーであり、ハイアマチュアと呼ばれる層のカメラマニアはほとんどの人が所有しているような状態だった。

 何となくタイミングがずれて僕はT2の購入を見送ったのだが、問題はそのことを知った僕の周囲の“T2を買ったオヤジども”である。

 彼らはさり気なくT2を携帯し、僕の顔を見るたびにそのカールツァイス ゾナーT*38ミリ F2.8レンズの描写力を賞賛する。そして「え? 持ってないの? プロなのに」という顔をして意気揚々と去って行くのだ。これは悔しい。しかし後追いでT2を買うことは、僕のプライドが許さない。同等のものを手に入れても、彼らを超えることにはならないからだ。

 そして臥薪嘗胆(がしんしょうたん)、雌伏すること約10年、僕はこの日を待っていたのだった。新製品のT3をいち早く手に入れて、T2オヤジどもに見せびらかすために。

 京セラの光学機器統括事業部(2005年にCONTAX事業から撤退)はそんなマニア心を知り抜いているので、T3にはありったけの薀蓄(うんちく)を盛り込んだ。

 カールツァイス ゾナーT*35ミリ F2.8レンズはT2の38ミリに比べて特にMTFデータにおいて格段の改良が加えられている。さらに最短撮影距離を70センチから35センチにまで短縮。T2では不可能だったマクロ的な撮影も可能にした。さらに65グラムも軽量化・小型化したチタンボディ。多結晶サファイアのシャッターボタン。高品位硬質ガラスのファインダー。……ふう。

 つまりT3を買ったオヤジが、T2しか持っていないオヤジに自慢できる薀蓄をてんこ盛りにしてあるのだ。そしてT2オヤジは地団駄(じだんだ)を踏み、敗北感で一杯になりながらやがてT3を買うのである。

 どう考えてもT3は買い、なのだ。では僕は一体何に悩んでいたのかというと、他人との実りのない争いに少々疲れていたのだ。今回僕がT3を手に入れてT2オヤジに勝ったとしても、彼はまた別の新製品を手に入れて巻き返しを図るだろう。これではエンドレスな宗教戦争ではないか。「カメラ好き、写真好き」という同じエリアで生きているなら、もっと平和的な関係を保つ方法があるはずだ、などと僕はそのとき考えていたのだった。


背中を押す言霊(ことだま)

 「いかがですか」と背後から店員に声をかけられた。「今でしたら在庫がございますよ」

 「でもこれ、キズが付きやすそうな塗装だねぇ」と僕は答えた。するとその店員は自信たっぷりにこう言ったのだ。「だいじょうぶですよ。“チッカチタン”ですから」

 その滑舌のよい、乾いた言葉は僕の耳から脳天へと抜けた(ような気がした)。その店員は『チッカチ、タン』と語尾を強調するような発音で僕を魅了した。その言葉の意味は分からないが、たぶん、それは正義なのだと理解した。

 僕は動揺して急いで売場を離れた。不思議にそれまで悩んでいたことが晴れていくような感覚があった。“チッカチタン、チッカチタン……”頭の中を言葉がループしている。

 そして数日後、僕はT3を手に入れたのだ。

 カタログを詳しく読んで分かったのだが、「チッカチタン」とは「窒化チタン皮膜」のことで、従来のチタン材の3倍の表面硬度を持っているのだそうだ。チタンブラックという名前だが、むしろ焦茶色と呼んだほうがしっくりとくる渋い色だ。これ以上の金属感はないほどの完成度。きっとこれは僕の求める「正義」なのだろう。

 僕はT2オヤジにアポイントを取った。心置きなくT3の薀蓄を垂れよう。何度もリハーサルしたように。

 「この表面処理はチッカチタンと言ってね……」

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