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第1回 「何を」から「どのように」へ
〜生活者視点によるコンテンツ消費の検討〜(1)
誰がキラーコンテンツを“殺して”いるのか?

» 2004年07月22日 01時20分 公開
[比留間雅人,電通総研]

はじめに

 新しい情報環境が普及しつつある。本格普及のフェーズが見えてくるに伴い、「新しい情報環境を駆使して、生活者はどのような情報行動をするのか」という問題が〜技術者の夢物語ではなく〜非常に現実的なレベルで問われるようになる。

 このとき浮上するのが「コンテンツ」だ。幾度となく繰り返される議論だが、「生活者はインフラを求めているのではない。インフラは手段であって、あくまでコンテンツを求めているのだ」というわけだ。

 そうだとすれば、いったいコンテンツの何が生活者の欲望を刺激するのだろうか? この点を突き詰めていくと〜「コンテンツ」という言葉の意味からすれば少々逆説的なのだが〜「どんなコンテンツがウケルのか」(『何を』の問題系)といったようなコンテンツの中身や質を気にしてもしようがないことがわかる。

 その一方で、「どのようにコンテンツを提供/受容するのか」(『どのように』の問題系)の方が重要であることに気づかされる。

「オリンピックは、キラーコンテンツだからキラーコンテンツなのだ!」

 オリンピックの季節だ。これからしばらくの間は、このスポーツの祭典がメディアの話題をさらう。筆者のようにオリンピックに興味のない人間にはいささかうんざりな季節なのだが、あれだけ多くの資金と人が動くという「現実」を前にして、サッカーワールドカップ同様、オリンピックがキラーコンテンツ〜新しい技術やサービスの大幅普及の契機となるサービスや情報〜であることに異論を唱える人はいまい。

 実際、AV家電メーカ各社は、アテネオリンピックに向けて、液晶テレビやPDPテレビ、DVDレコーダといったデジタル家電製品を市場に投入し、オリンピックをネタにしたコミュニケーションを大々的に展開している。

 しかし、こうしたキラーコンテンツは、なぜあれほどの祝祭的興奮を引き起こすことができるのだろうか。キラーコンテンツの力の源泉は何なのだろうか? それは〜「コンテンツ」が、まさにあるメディアや技術の『中身、内容』であるように〜コンテンツの質、つまりコンテンツの中身なのだろうか?

 「オリンピックはそれだけ魅力的なコンテンツなのだ」という人もいるだろう。「オリンピックは、そもそもみんなを騒がせてしまうようなパワーを持っているから、みんなが騒いでいるのだ」というわけだ。一見して説明になっていないように聞こえるが、実はこうしたロジックが生活者側に成り立ってしまうところに、キラーコンテンツのキラーコンテンツたる所以がある。

キラーコンテンツの条件は「にわかファンの動員力」

 どんなにマイナーな種目でもコアなファン層が存在する。コアなファンにとっては、一大国際競技会たるオリンピックやサッカーワールドカップは、確かに連日徹夜して観るべきものだろう。しかしコアなファンだけでは、これほどの大騒ぎにはなるまい。

 直近のイベントという意味で、サッカーワールドカップ2002で考えてみよう。図表は、2002年関東地区の世帯視聴率トップ10番組である(電通総研「情報メディア白書2004」ダイヤモンド社)。サッカーワールドカップの試合を45%から66%の人々が視聴したということになる。

順位 番組名 世帯視聴率(%)
1 2002FIFAワールドカップTMグループリーグ・日本×ロシア(フジテレビ) 66.1
2 2002FIFAワールドカップTM決勝・ドイツ×ブラジル(NHK総合) 65.6
3 2002FIFAワールドカップTM1次リーグ・日本×ベルギー(NHK総合) 58.8
4 2002FIFAワールドカップTM決勝・ドイツ×ブラジル(NHK総合) 50.2
5 2002FIFAワールドカップTM決勝トーナメント・日本×トルコ(NHK総合) 48.5
6 2002FIFAワールドカップTM準決勝・ドイツ×韓国(日本テレビ) 48.3
7 2002FIFAワールドカップTM・ブラジル×トルコ(NHK総合) 47.6
8 第53回NHK紅白歌合戦(NHK総合) 47.3
9 2002FIFAワールドカップTMサッカー・チュニジア×日本(テレビ朝日) 45.5
10 2002FIFAワールドカップTM決勝トーナメント・日本×トルコ(NHK総合) 45.3

 サッカーがまだマイナーな競技だった時代のワールドカップを思い出して比べて欲しい。当時は、中継はおろかスポーツダイジェストですらあまりとりあげられなかった。コアなファンがいたにも関わらずだ。では、02年時点でコアなファンが6割にもなっていたかといえば、もちろんそんなことはない。レギュラーで放送されているサッカー関連番組で、6割の視聴率を誇るものはないだろう。

 6割という驚異的な視聴率が示す社会的な広がりは、コアなファン以外の人を、期間限定の「にわかファン」として動員することで達成された、と考えたほうがよさそうだ。ワールドカップやオリンピックがキラーコンテンツといわれる所以は、この動員力にある。

「みんなが騒ぐから騒ぐ」:「期待」は行動を促す

 では、なぜにわかファンが大量発生するのか。たとえばオリンピックというコンテンツのパワーが、単に「競技会として質が高いこと」というだけならば、コアなファンにしか受けないだろう(そもそも、オリンピックの試合が、常に通常の国際大会の試合よりも面白いというわけではない)。実は競技会としての質以外の要素が大きく影響しているのではないだろうか?改めて思い返してみれば、確かに生活者はメディアを介して競技以外の情報にも多く接触している。

 たとえばオリンピックというイベントの経済的側面は、普通の生活者にもなじみの話題だ。「オリンピック商戦」とか「オリンピックの経済効果」などは、開催直前の定番ニュースだ。アテネオリンピックに関連して、はやくも「オリンピックがHDD&DVDレコーダー購入のきっかけに」との日本能率協会総合研究所による調査結果が発表されている(日本能率協会総合研究所リリース関連記事)。

 ここで改めて考えてみよう。「オリンピック商戦」などという企業の思惑は、「消費者」たる生活者に知らされるべきことなのだろうか? 祭にゼニ勘定とは無粋ではないか? 提供者の立場で考えてみれば、そもそも消費者には「今回のオリンピックは深夜の中継が多くなるからDVDレコーダーを買おう」と素直に思ってもらえればよいはずだ。「『{今回のオリンピックは深夜の中継が多くなるからDVDレコーダーを買おう}と消費者に思ってもらいたい』と企業は考えている」などという情報は、必要がないどころか、一種のアナウンス効果の危険すらあるのではないか?

 ところが、である。「現実」はそうではない。「オリンピックの時期は、お祭ムード一色になるだろう」「オリンピックはとてつもない経済的・社会的影響力をもっているにちがいない」と期待(予想)する生活者は、開催直前のメディア上で飛び交う金額や、特需に潤う人のホクホク笑顔、思惑の外れた人の沈んだ表情といった様々なエピソードに触れることで、期待(予想)を現実のものと確信するのだろう。

「みんなが騒ぐからみんなが騒ぐ」:「期待」は社会的に実現する

 みんながお祭騒ぎをするから、自らお祭騒ぎをし、それがまたメディアに取り上げられ、予測がさらに確信され…そうして予測は現実化し、お祭騒ぎが本当に発生する。

 多少抽象化してしまえば、「生活者がある予測をたて、それに基づいた行動をする→それが情報としてメディアに吸い上げられ、増幅され、生活者にフィードバックされる→予測が確信に変わり、確信がさらなる予測をもたらし、その予測に基づく行動をとり…」というプラスのスパイラルが発生しているのだ。ひとりひとりの生活者だけでなく、行政も、企業も、メディアもがこのスパイラルに参加するとき、予測は社会的に実現してしまう。

 これは何もオリンピックというお祭を純粋に楽しんでいる人ばかりにあてはまる話ではない。「私はオリンピックに興味はないが、みんなが騒ぐだろうから、とりあえず乗っておく」というシニカルな人も同様だ。さらに言えば、オリンピックに否定的な人だって、オリンピックを一大イベントとして批判する限り、オリンピック神話の登場人物だ。

それゆえ、誘致合戦やらオリンピック商戦といった、夢とは程遠い舞台裏まで見せられても、「オリンピック=キラーコンテンツ」という神話は衰えるどころかますます強化されていくのである。

 「みんなが騒ぐからみんなが騒ぐ」…だからこそ、閉会してこのプラスのスパイラルが途絶える(みんなが騒がなくなる)と、何事もなかったようにみな日常に戻り、マイナーな競技はマイナーな競技として、メジャーな競技はメジャーな競技として元の居場所に戻るのだ。

 次回は、「生活者は何を得ているのか」という視点から、コンテンツ消費を検討してみたい。

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