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コラム

キモオタの発祥に見るコンテンツ社会の臨界点小寺信良(3/3 ページ)

近年、「オタク」という語感の持つ脱社会的な部分が抜け落ちてしまい、次第に清潔なものになりつつある。だがこれは、名指ししていた層が変化しただけのこと。かつての「オタク」を指す部分に入るべき言葉――「キモオタ」について考えてみた。

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どこで引き返すか

 もし「キモオタ」という言葉が普通名詞化するほど普及するとしたら、それはまずインターネットからだろう。インターネットは実社会と似ている部分も多いが、最も違うのは社会的な約束事を無視できるところにある。ある意味平等ではあるのだが、行動次第によってはキモチワルイことになりかねない。

 ここで注目すべきは、決して「キモい」はそれに変わらないという点である。キモいとはその状態を表わす言葉であり、「あいつキモい」、「キモいヤツ」となることで初めて人を表わす。

 すなわちそこには、キモいヤツならばそれは何らかのオタクであろう、という思考の短絡がある。80年代型オタクイメージの残滓と言えるだろう。そしてこの場合、何に対してのオタクであるかは問題ではないし、あるいは本人がオタク的な傾向を持つ持たないということすらも、問題ではないのである。

 例えば社員が20〜30人ぐらいの企業があったとする。そこには社長以下専務、部長、課長、係長、主任といった役職があることだろう。例え平社員と社長の席が物理的に5メートルしか離れてなくても、いきなり平社員が社長に直談判しにいったら、「お前バカか?」ということになる。意見を通すには、それなりの筋道を通ってウエに上げていかなければならないというのが、社会の決まりなのである。

 だがインターネットでは、相手の情報を捕捉できる限り、誰にでもいきなりダイレクトに意見を投げることができる。その利便性がプラスに機能しているうちは有効なツールなのだが、「公」に対して「私」のままで投げつけたり、実像に対して虚像で投げつけたりすると、マイナスとなる。

 直にアクセスできる手段があるからといって、それを実際にやってしまうのと、オフィシャルな連絡手段を介してアポイントを取って接近していくのとでは、その行動の社会性は大きく違うのである。

 キモオタ的言動は、その人の社会的な環境にも、そしてその愛情を注ぐ対象にさえも、深刻なダメージを与える。言動を「イタタタ」程度で笑える範囲に収めて引き返すことも、末永くコンテンツとその派生物を楽しむために、また必要なのである。


小寺信良氏は映像系エンジニア/アナリスト。テレビ番組の編集者としてバラエティ、報道、コマーシャルなどを手がけたのち、CGアーティストとして独立。そのユニークな文章と鋭いツッコミが人気を博し、さまざまな媒体で執筆活動を行っている。

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