――その後はフリーとしてノンフィクションや歴史小説などを書いていた溝口さんですが、なぜか次に博報堂に入社します。
溝口: 約5年間、大塩平八郎を扱った小説や創価学会の批判本などを書いていたのですが、そちらはさほど売れませんでした。さすがに『血と抗争』の売り上げも落ちてきたので、講談社の人の紹介で博報堂に入社しました。腰かけのつもりが、7年4カ月くらい在席していましたね。女房やまだ存命だったお袋に「おまえ、勤め続けなきゃだめだ」とも言われまして。
――暴力団がテーマのベストセラーを手掛けたフリージャーナリストが、大手企業の正社員になるとはなかなか意外です。
溝口: 当時はPRの中でも情報サービスやパブリシティー(出版業界)の仕事をやらされましたが、僕にとっては割と簡単で、大した仕事じゃなかったです。
本当に不良サラリーマンで、出社するとお茶を飲みに外に出て、1時間ブラブラするなどして、午後7時半にはまた会社を出てお店に行き、午前1時くらいに帰宅するような感じでした。今なら考えられない、ちゃらんぽらんな仕事をしていました。担当した仕事の予算に自分の会食(の費用)を突っ込んだりと、社用族的なこともしていました。
そのうち、ぬるま湯の良さのようなものに染まりまして……。女房が今度は「あんた、博報堂に勤めていると人間が悪くなる一方だから辞めた方がいい」と言いました。そうだなと思って辞めて、また物書きの世界に舞い戻ったのです。まだ30代でした。
その時に決めたことは、「雑誌だろうと何だろうと(媒体の言いなりの)『便利屋』にはならない。署名記事を書く」「仕事がないときは、他の仕事でも何でもやる」。そういう気持ちで(フリーライターを)再開したのです。
――博報堂のような一流企業に勤め続けたら、恐らく何不自由のないサラリーマン生活を送れたでしょう。最後に、溝口さんは今のフリージャーナリストとしての生き方に後悔はありませんか?
溝口: そうですね。自由であることに苦痛は感じていないし、不自由さも感じていませんね。
僕はもともと文学青年でした。子どものころから本好きで、「本を1冊書けたらもうけもん」と思っていました。徳間書店を辞めて最初の本を書き上げた時には「とうとう1冊、自分の名前で出せた。これ以上のもうけもんは無い」と感じた。
そういう考えだから、今の状態が良いのです。あと、僕にはやはりサラリーマンへの適性は無かったと思いますね。博報堂に入った時には「サラリーマンとしても僕は才能あるんじゃないか」と思いましたが(笑)。やはり適性は無かった。だからこそ、辞めたんだと。
――ありがとうございます。7月29日(月)公開の後編では、溝口さんが約30年に渡って取材し続けた「脱サラリーマン」というテーマについて聞きます。
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