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» 2019年12月17日 07時56分 公開

400年前にも「サラリーマン」の悲哀 古文書が語る「ある武士の生涯」 (1/3)

勤め先が倒産し、再就職先でトップに忠誠を尽くすもトップが失脚、転勤を余儀なくされる−。戦国末期から江戸初期を生きた、ある武士の実話だ。

[産経新聞]
産経新聞

 勤め先が倒産し、再就職先でトップに忠誠を尽くすもトップが失脚、転勤を余儀なくされる−。戦国末期から江戸初期を生きた、ある武士の実話だ。最初に仕えた主が滅び、新たに仕えた藩で藩主に重用されたが藩主が改易され、国替えになった後継者の元で再出発を図った。この武士の家に伝わる書簡や、この武士が自らの戦功を書き連ねた「履歴書」ともいえる文書をひもとくと、約400年前とは思えない、現代を生きるサラリーマンのような生きざまが浮かび上がった。(橋本昌宗)

主君が滅亡、敵方に

 主人公である武士の名は、桜井武兵衛(ぶへえ)。神奈川県立歴史博物館(横浜市中区)で公開されている文書や書簡から、その人生を追ってみたい。

 桜井氏は、少なくとも武兵衛の父、桜井左近の代から、戦国時代の関東に覇を唱えた有力武将・北条氏に仕えていた。3代目当主、氏康の家臣「江戸衆」として小石川(現在の東京都文京区)を所領としていた−という記録が残る。

 左近から武兵衛に代替わりすると「上野(こうずけ)衆」の一員となり、所領も上野国(現在の群馬県)内に移ったとみられる。上野衆を主に束ねていたのは氏康の息子で4代目当主・氏政の弟、氏邦(うじくに)。今風にいえば一族経営の大企業の子会社で働く勤め人−といった立ち位置だろうか。

photo 北条氏滅亡後、徳川家康の息子・結城秀康の一族に仕えた桜井武兵衛が書いた「武士の履歴書」=神奈川県立歴史博物館

 運命が一変したのは天正18(1590)年、豊臣秀吉が北条氏を攻めた「小田原合戦」。武兵衛も北条氏に付き従い小田原へ参集、戦ったとみられ、戦死することなく生き残ったが、北条氏は滅亡した。主を失った武兵衛が次に仕えたのは、関東の名門・結城氏の養子となって下総(しもうさ)国(現在の千葉県北部から茨城、埼玉、東京の一部)に入った結城秀康だった。

 秀康は、後に江戸幕府を開く徳川家康の息子でありながら人質のような形で秀吉の養子となり、小田原合戦後に結城氏の養子となった人物。所領が急拡大したこともあり、北条氏や甲斐の武田氏などの遺臣を積極的に登用していた。

 武兵衛もそんな一人だったとみられる。秀吉の死後、家康は慶長5(1600)年の関ケ原合戦を経て征夷大将軍となる。関ケ原の後、秀康は加増されて越前国(福井県)に転封になり、武兵衛も従った。秀康の元での武兵衛の知行(俸禄)は500石で、鉄砲足軽を指揮する「鉄砲組頭衆」だったという記録が残っている。

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