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「Windows3.1をすべてのPCに」――ウィンテル連合の予兆は“3本の矢”温故知新コラム(2/2 ページ)

世の中に登場して半世紀しか経たないコンピュータにも、歴史が動いた「瞬間」はいくつも挙げることができる。ここに紹介する「ビジュアル」もまさしくそのひとコマ――。

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コンパックの方針変更

 もともと米コンパックは、「プレミアム製品をプレミアム・プライスで」という高機能路線を追求していた。コンパック・ショック以降のコンパックしか知らない読者にとっては、高価格、高機能戦略をとっていたことには違和感を持つかもしれない。だが、この高機能路線が失敗し、業績悪化を招いた責任をとって、創業以来同社を率いてきたロッド・キャニオンCEOの解任が決定。欧州での実績を買われてCOOに就任していたエッカード・ファイファー氏がCEOに就任し、低価格路線を中心とした事業体質へと大きく舵を切っていた段階だった。

 日本におけるコンパック・ショックを見ても分かるように、これ以降コンパックは、低価格路線を推進することになる。

 村井社長は就任時に、「日本のパソコン市場は、国際標準とは異なる唯一の市場だといえる。コンパックが提供する製品は世界標準の製品であり、ユーザーがこれまでに投資した資産も継承できる」とのコメントを発表。市場の主流を国内標準であったPC-9800シリーズから、国際標準のAT互換機への転換することに強い意志を見せた。

 そして、この日の会見で登壇した村井社長は、「米国の実績やノウハウを、日本にもフィードバックし、Windows分野でのリーダーを狙う」と、低価格戦略を前面に打ち出すことで、Windowsの普及とコンパックのシェア拡大を宣言した。

 だが、Windows 3.1時代を征したのは、結局はNECだった。NECは、PC-9800シリーズ用のNEC版Windows 3.1を提供し、これによって、依然として圧倒的シェアを維持した。コンパックの派手な会見の裏で、積極的な広告展開と全国に広がる販売店網、そして「98」のブランドで他社を寄せ付けなかった。PC-98の牙城が崩れるのは、それから2年後のWindows 95まで待たなくてはならなかった。(肩書きはすべて当時のもの)


NECは「日本のウィンドウズ時代は、私たちが創る」をキャッチコピーにビル・ゲイツ会長とNECの関本忠弘社長(当時)をモデルとし、全国紙に広告を打ちまくった

このコンテンツは、月刊サーバセレクト2006年4月号の記事を再編集したものです。


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