オモロイけど、なんか微妙…。アナ雪との比較で見える『ザ・スーパーマリオギャラクシー・ムービー』を評価しにくい3つの理由(1/2 ページ)
オモロイけど、なんか微妙……。それが、最新作『ザ・スーパーマリオギャラクシー・ムービー』を観た、私の率直な感想なのですが、皆さんはいかがでしたか? なぜ微妙に感じるのか、今回はその理由を3つに分けて考察しましたので、参考までにご覧ください。
オモロイけど、なんか微妙……。それが、最新作『ザ・スーパーマリオギャラクシー・ムービー』を観た、私の率直な感想なのですが、皆さんはいかがでしたか?
5月17日時点での全世界興行収入は1532億円を超え、前作に続き、大ヒットを記録。国内でもすでに64億円を突破しており、その勢いはとどまるところを知りません。しかし、前作と比べると、評価しにくい印象がありますし、観客の皆さんの賛否も分かれている模様です。
もちろん、マリオの映像作品としては、極めて洗練されており、新設のアトラクションに乗っているかのように、楽しむことはできました。しかし、物語として面白かったかと言われると、はてなマークが浮かんでしまいます。なぜ微妙に感じるのか、今回はその理由を3つに分けて考察しましたので、参考までにご覧ください。
木島祥尭
フリーライターとして、家電、家具、アニメ等の記事を担当。大学時代から小説や脚本などの創作活動にはまり、脚本では『第33回シナリオS1グランプリ』にて奨励賞を受賞、小説では『自殺が存在しない国』(幻冬舎)を出版。なんでも書ける物書きの万事屋みたいなものを目指して活動中。最近はボクシングをやりはじめ、体重が8kg近く落ちて少し動きやすくなってきました。好きなものは、アニメ、映画、小説、ボクシング、人間観察。好きな数字は「0」。Twitter:@kirimachannel
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『ザ・スーパーマリオギャラクシー・ムービー』を評価しにくい理由:その1、この作品で成長したキャラが誰もいない疑惑
最新作を観て、まず思ったのが「この話って、誰が成長したんだろう?」という点でした。ディズニーやジブリを含め、古今東西、魅力的な物語には「成長」が重要なファクターとして機能しているかと思います。『アナと雪の女王』であれば、妹を遠ざけていたエルサが、愛に目覚めてアナとの関係を修復するといった、物語の最初と最後で何らかの成長を見せている作品は、やはり感動を呼び込むところがあります。
そして、それは前作『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』でも採用されており、マリオの成長物語を追える展開になっていたかと思います。うだつの上がらない配管工・マリオとルイージの2人が、不思議な土管に吸い込まれて異世界に飛ばされ、最後には英雄として帰還するというプロット。
「ハリーポッター」や「千と千尋の神隠し」、「不思議の国のアリス」と同じ、冒険に出て何かを得て帰ってくる”行きて帰りし物語”として描かれていました。ダメダメなマリオが修業をしながら、困難を乗り越えヒーローになっていく、1本軸の通った話だったので展開が追いやすく、その変化に感動するところもありました。
しかし、最新作に関しては、さまざまなキャラが登場するものの、こうした成長曲線を描くキャラが居たかと言えば、かなり疑問です。マリオはやや情けなさを残しながらも、基本的には完成された人格として存在しており、最初と最後で人間的な成長があったようには見えませんでした。それはルイージやキノピオ、ピーチ姫にも当てはまるかと思います。
ピーチ姫に関しては、後段で語りますが、アイデンティティについて悩みを抱えている描写はあったものの、前作のマリオのような、人間的な成長プロセスがあったかと言えば、はてなマークが付くところです。新キャラとして登場したヨッシーやスターフォックス、クッパJr.なども、魅力的なアクションはしますが、内面的な成長は特にありませんでした。
つまり、キャラクター各々に見せ場は用意されているものの、今回の冒険を通して誰も成長していないように見えてしまうのです。「成長」のファクターの欠如が、前作と比べた時の物足りなさを生んでいる可能性は一定程度あるのではないでしょうか。
『ザ・スーパーマリオギャラクシー・ムービー』を評価しにくい理由:その2、構造的にはアナ雪だけど、中身が追いついていないのかも…
これは前作から感じていたことですが、最新作にもアナ雪的な“プリンセス像の見直し”という意識が底流に流れている気がします。ディズニー映画でもマリオでも、かつてお姫様は王子様を待つ受動的な存在として描写されていた節がありますが、アナ雪以降、プリンセス像の見直しが加速度的に進んだ印象があります。
例えば、アナ雪では、“王子のキスで呪いが解ける”という表現をあからさまに否定する描写がありました。最新のマリオでも「お姫様はなんでいつもさらわれるんだろうな?」という、マリオ作品に対する自己言及的なセリフや、ピーチ姫自らが最前線で戦うなど、かつての受動的なプリンセス像はもはや見られません。このように、時代の要請に従って、ディズニーにしても、マリオにしても、旧来的なプリンセス像への批判と、自律的なプリンセスへの転換を図っている点は同じです。
また、旧来的な男女のパートナシップ(結婚)だけにとらわれず、姉妹愛に着地する点や、男が理想化された王子様ではなく、等身大の男子として登場する点も似通っています。男がややマスコット化しており、憧れの対象というよりは、一緒にいて楽しい、かわいげのある存在に調整されているのが、近年のヒット作の傾向かと思います。
つまり、プリンセス像の刷新や、姉妹愛への帰結、等身大の男子を描くなど、新作マリオも、外形的にはアナ雪の後継作としての要素を備えている作品と言えそうです。時代の要請に従った形へ調整されているのは良いポイントだと思いますが、問題はその中身。エルサとアナが再会し、互いの愛を確かめ合ったように、本作でもピーチ姫は姉妹愛を成就させているので、深い感動が得られそうな気がします。しかし、そうはなっていない……構造は同じなのに、なぜ感動しにくいのでしょうか?
その原因はピーチ姫もロゼッタも、離れて住んでいるだけで、2人の関係自体には何の問題もないからなんじゃないかと、私は考えています。そもそも、未熟な人物(あるいは関係性)が成熟するプロセスを描くのが物語の醍醐味だと思うのですが、その意味ではアナ雪のエルサとアナは、物語の当初は未熟な存在でした。
エルサは自分を抑圧し、妹を遠ざけてしまい、アナは一時の恋愛感情で姉を責めてしまい、すれ違ってしまいます。そんな2人が紆余曲折を経て、互いの過ちに気づき、愛に目覚めるという形でクライマックスを迎えます。前半で未熟さをしっかり描くからこそ、後半の成熟した2人の愛が際立ち、そのふり幅に感動するわけです。フリとオチが効いていると言っても良いでしょう。
しかし、ピーチ姫とロゼッタの2人の関係において、未熟から成熟へのプロセスが描かれていたかと言えば、疑問です。2人はすれ違っていたわけではありません。互いの未熟さゆえに、離れ離れになっていたわけでもありません。単に会っていなかっただけなので、会えたところで、互いのすれ違いを乗り越えた、カタルシスはなかったように思います。
離れ離れになった原因は全て外的要因で、2人の内的要因はありませんから、当然内的な成長プロセスもそこには存在しません。そもそもすれ違っていないので、再会前も後も2人の関係が深まった印象が得られないと言いますか……。つまり、最初から2人は仲が良く成熟した関係なので、物語の前後の振れ幅が無い、あるいは、すれ違いというフリがないので、再会というオチが効いてこないというのが私の実感です。
また “姉に関する記憶が消されている”というギミックもアナ雪と被りますが、この点にも課題が残ります。アナ雪が巧みだったのは、エルサの能力に関する記憶だけ消去し、エルサとの思い出はしっかり残している点です。エルサへの好きという想いは継続しているので、「雪だるま作ろう」とエルサに好意をアピールし続ける、妹のいじらしさや、姉にずっと会いたかったという、アナの長年の想いが表現されていました。
一方、ピーチ姫の場合は、姉に関する記憶がほぼ全て抹消されている状態でした。こうなると、「ずっと姉に会いたかった」という前提が成立しにくくなります。物語の途中で姉のことを思い出すのですが、長年忘れていたわけなので、ずっと姉を想い続けていたという“想いの積み重ね”がありません。そうなると再会時の感動がやや薄れてしまう気がします。
小さい頃は仲良かったという回想はあるのですが、アナにとってのエルサのように、“ずっと想い続けていた人”ではなく、“最近思い出した人”という位置づけなので、長年かけての想いの積み重ねが無く、その分姉妹愛がトーンダウンしてしまうのは否めないかなと……。シンプルにアナ雪が作品として完成され過ぎているだけなのかもしれませんが、姉妹の再会に対しての、ありがたみをもう少し感じたかったとは思います。
『ザ・スーパーマリオギャラクシー・ムービー』を評価しにくい理由:その3、観客の世界との連続性が薄い
前作を観て、凄いと思わず感心したのが、マリオの居住地をブルックリンに設定している点です。我々観客と地続きの世界にマリオが生きていて、イタリア系アメリカ人の配管工として頑張っているという設定は、同じ世界に住む社会人として、人間味やリアリティを感じやすく、地に足の付いた物語として鑑賞しやすいところがありました。
ただし、本作ではブルックリンの描写が限定的で、マリオの生活感がほとんど見えなくなってしまいました。むしろ土管の向こう側にある、キノコ王国での日々が日常になってしまい、ほぼ異世界の住人になってしまった印象があります。職業人としての素朴なマリオではなくなったため、前作より感情移入しづらかったのが正直なところでした。
宇宙に舞台を移してからは、さらに自分事化しにくい内容になってしまった印象ですが、そんな突飛な話でも現実と繋がる時代性や普遍的なテーマがあれば、見やすくなります。例えば『ズートピア』は、動物たちの楽園という突飛な世界ですが、そこで描かれているのは、種族間の争いや差別、偏見であり、現実と繋がる要素が用意されています。
しかし、新作マリオでは、こうした普遍性や社会性のあるメッセージが読み取れる場面も見受けられず、シンプルに地に足のつかないバトルが繰り返されているように見えました。普遍的なテーマをヨッシーやクッパJr.で描くかと言えば、そういうわけでもなく、追って追われてを続ける、やや茶番劇っぽくなっていた点は否めないでしょう。
ラストの方は、はてなマークのアイテムボックスを多用し、そんなのあり? というくらいの能力合戦で、インフレに付いていけないところもありました。ただ、こうした追って追われてのトムとジェリー方式で進行し、最後にドカーンと一発で終わらせる、茶番劇っぽい構成であることは、実は映画の序盤に宣言されていました。
マリオとルイージが最初砂漠をバイクで疾走するシーンがあったかと思います。そこでは、骨だけになった“カロン”と思しきキャラと、“クリボー”のやり取りが描かれています。カロンが口を開けてクリボーを飲み込み、食べてやったぜと笑うと、骨の隙間からクリボーが出てきてしまい、それをまたカロンの手が捕まえる、しかし最後にはマリオたちのバイクに踏みつぶされるという流れ。あれは映画全体の予告だったと言えるかもしれません。
カロンをクッパ陣営、クリボーをマリオ陣営と考えると、その後の映画の流れを予告する描写のように見えます。ざっくり映画のプロットを言えば、マリオとクッパ(&クッパJr.)が追って追われての戦いを繰り返すうちに、別の力でドカーンと幕が下りる構成ですから。カロンという骨だけのキャラを出しているのも、クライマックスシーンをほうふつとさせますし……。
この映画はあくまで、そういうコメディであり、茶番劇として楽しんでいってくださいというメッセージなのかもしれません。なので、今回私が書いていることは無粋極まりないわけですが、こういう視点もあるのかくらいで、楽しんでいただければ幸いです。
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