この映画には、予告編やパンフレット、宣伝用の写真に、ある趣向を凝らしている。地底にうごめいて彼女たちを襲い、喰らおうとする“地底人(クレジットではCrawler=這い回る生き物)”のビジュアルを、一切公開していなかったのだ(ただしDVD宣伝用のTVスポットでは、その姿をチラ見させているが)。
「ロード・オブ・ザ・リング」のゴラムを7倍凶悪にしたような、人間とは似て異なる不気味な“地底人”が、振り向いたらすぐ横にいて、思わず絶叫。「ディセント」はここから後半50分間、女性たちの友情ドラマだった前半とはまったく違う映画――阿鼻叫喚のスプラッタ・ホラーに変身する。
出口なし、助けなしの状況で、女たちは緊張の糸が切れたのか、それとも「こうなりゃヤケじゃ。いったらんかーい」と、精神が攻撃モードに切り替わったのか、ためらわず“地底人”たちとのガチンコに突入!
全裸のゴラムもどきを殴り、蹴り、首を絞め、ピッケルで頭部粉砕、しまいには親指で眼球をぐちゅ。みんな、どこで格闘術を習ったんだろう。強い!そしてエグい。
しかし暗闇はやつらのホームグラウンド。音もなく忍び寄り、喉を噛みちぎる地底人たちに1人、また1人とガールズは倒れていく。しかも一致団結して闘わなければいけないこの非常事態に、サラはジュノと亡き夫が不倫関係にあったことを知ってしまう。“地底人”との肉弾バトルに、女同士のどろくちゃの確執もプラスされて、もう大変。
監督のニール・マーシャルは、2002年「ドッグ・ソルジャー」で長編デビューした英国ホラー界の俊英。特典映像の「スタッフ・キャスト インタビュー」で、「本作を作るにあたり意識したのは「エイリアン」(1979)、「シャイニング」(1980)、そして「脱出」(1972)」だと語っている。
なるほど、女性が正体不明の怪物と闘うところは「エイリアン」、密室状態の環境下で理性が狂ってゆくところは「シャイニング」を意識している。それでは、「脱出」のどんな点をマーシャル監督は汲み取ったのだろう。
「脱出」は、川下りを楽しもうと都会から田舎にやって来た男たちが、些細なトラブルが発端で地元住民と殺し合う異様な人間ドラマだ。描かれるのは都会と田舎のディスコミニュケーション、そして異常な体験をした人間は、別人になってしまうということ。死の淵を味わったことで、それまでの自分とは否応なく変化してしまう。平穏だった自分から、不穏なものを秘めた自分へと。
物語の最初と最後では、サラはまるで別人のように変わってしまう。変化をもたらしたのは、家族の死ではなくて、自分自身の死の極限だ。物静かで線の細い女性だったサラだが、“地底人”と命懸けで闘い、愛する夫の裏切りを知り、信じていた親友と殺し合い、血まみれの女戦士と化す。
そして、この映画が本当に恐ろしい理由は、終盤にある。多くのホラー映画で使われているどんでん返しの手法が、ここでも用いられている。生き延びた者が一安心してふと横を見ると、怪物がまだそこにいる、というやつが。本作でいうなら、その怪物は“地底人”となるはずなのだが、そうではない。しかし、もっと恐ろしい、おぞましいものがすぐ横にいる……。
スプラッタ・ホラーとして突き進んでいながら、最後の最後で「ディセント」は実存主義世界に突入している。これは夢なのか、現実なのか。生きているのか、死んでいるのか。私はいるのか、いないのか。
画面に映し出される映像が本当なのかそうでないのか判別がつかなくて、この映画はとても……とても恐ろしかった。余談ですが、フレンチ・ホラーの「ハイテンション」も“ホラー”のルールを無視したオチなのだけれど、むしろそこが怖かった。ルールを破ることで、向こう側の“恐怖”がこちらに忍び寄ってきて、他人事ではいられなくなる戦慄が背筋を走るからだ。
こんなに怖い「ディセント」だけど、特典では“地底人”が愉快に歌って踊るメイキング満載で、どっと気が抜けてしまうんだな。
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