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» 2021年01月05日 07時00分 公開

リモートの限界……コロナ禍の大学授業、対応で問われる真価

新型コロナウイルスの感染拡大で大学では4月以降、対面授業ができなくなった。コロナ禍が収束しても、全てが元に戻るわけではない。オンラインで学んだ学生の経験を集約し、活用できる大学が生き残るだろう。

[SankeiBiz]
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 國學院大学特任教授・赤井益久

 新型コロナウイルスの感染拡大で大学では新年度に入った4月以降、対面(ライブ)授業ができなくなった。國學院大學でも5月までは休校を余儀なくされ、5月7日から遠隔(オンライン)授業を始めた。

photo (GettyImages)

 ライブ至上主義者の私にとってオンライン授業は隔靴掻痒(かっかそうよう)でまどろっこしい。教室で直接話しかけたり、黒板に書いたりしながら学生の反応を確認して授業を進めるという講義スタイルがオンラインでは困難なためだ。授業に向けた事前準備も大変だ。外出自粛中の学生は書店に行って教科書を買うことができないため、教員は講義内容をデジタルデータ化して事前に渡す必要がある。この作業に慣れていないため手間が掛り面倒なのだが、その割に効果が薄いと感じる。

リモート授業の限界

 ライブ授業なら教室を歩き回りながら学生のノートをのぞき込んで間違いを正したり、やる気が見えない学生に奮起を促したりすることができる。神職を志望する学生には、神職として必要な立ち居振る舞いや祭祀(さいし)での作法などを教えるが、教員がやってみせ、学生にやらせてこそ身に付くものだ。

 しかしオンラインでは学生は顔を映さない原則になっているため教科書を事前に読んで調べて授業に臨んでいるのか、講義を理解できたのか画面からは分からない。「予習してきた」と善意の解釈で授業に臨むしかない。

 「習」という字には「羽」がある。「羽を広げてはばたく」を意味しており、ひな鳥が親鳥のはばたく様子を見てまねる。はばたく練習を何百回も繰り返す。一方、飛ぶ練習はできない。失敗すると落ちて死ぬからだ。それに対し人は予習も復習もできる。それでもやらない学生には学びの場をつくって自覚させるしかない。

 このように大学は教育の場を提供するのが使命だ。文部科学省も教育の質の保証を求めてきた。場の雰囲気というものが教育環境を作るが、オンラインで質を保証できるか疑問だ。

対応で問われる真価

 とはいえオンライン授業のいいところもある。地方に住んでいながら授業を受けられるし、人混みや対人関係が苦手で教室に入れなかった学生も出席できる。私は教員免許を大学卒業時に取っておらず、大学院時代に通信教育で学んで取得した。

 コロナ収束後は、オンライン授業などコロナ禍対応をどう生かすかで大学の真価が問われる。その一つがライブとオンラインを併用するハイブリッド型授業だ。國學院では11月中旬から一部授業で取り入れた。学生はどちらかを選択できるので、ライブ授業への出席が困難な学生も自宅で受けられる。

 コロナ禍が収束しても、全てが元に戻るわけではない。学びたい人が学びたいときに学べる環境を用意するのが優れた教育制度といえる。このためオンライン併用のハイブリッド型授業をやめるのではなく、有効な教育手段として残すべきだ。

 学生にとってどんな講義スタイルがいいのか聞いてみなければ分からない。オンラインで学んだ学生の経験を集約し、活用できる大学が生き残るだろう。大学も企業も生きていくには環境変化にあわせて変わっていくしかない。

 オンライン授業では90分も持たないことが分かった。いきなり講義に入るからだ。ライブ授業では講義の前後に出席を取ったり、雑談したりといったいわば遊びの時間があった。これが大事で、私は授業の最後に古来の名言、箴言(しんげん)、例えば「男子三日会わざれば刮目して見よ」(わずかな時間でも成長できる。昔の俺と思うな)、「志ある者は事竟に成る」(しっかりとした志を持つ者はどんな困難があろうとも必ず達成する)を学生へのメッセージとして話している。学生も心に残るようでしっかりと聞いている。学ぶ意欲は旺盛なのだ。応えるため、オンライン授業に切り替わっても続けている。

【プロフィール】赤井益久

 あかい・ますひさ 1983年國學院大大学院文学研究科博士課程後期満期退学、85年同大文学部専任講師、助教授、教授、教務部長、副学長、学長を経て2019年4月から現職。神奈川県出身。専門は中国古典文学。

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