いくつもの「顔」を持つ人である。若島正さん(72)。京都大で長く教壇に立った高名な英文学者であり、専門である作家、ウラジーミル・ナボコフの作品を中心に数多くの訳書を手がける翻訳家でもある。そして、将棋の藤井聡太七冠(22)をはじめ、多くのプロ棋士が敬愛する詰将棋作家の第一人者であり、そのチェス版「チェス・プロブレム」作家としても国際的に知られる。あらゆることを詰将棋になぞらえて理解する癖があるという若島さんに、人生の現局面にたどりつくまでの歩みや今後の展開をたずねた。
子供時代、「ヘボの将棋好き」だった祖父に将棋を教わった。20代の頃にはアマチュア大会で全国優勝したこともあるが、若島少年は指し将棋よりも、王手の連続で相手玉を詰ませるパズルの一種、詰将棋に魅せられた。「一人っ子だったことが大きい」という。
「一人でできる遊びを創作するのが好きで、先手も後手も自分が指す『一人将棋』をよくやりました」。そんな少年に詰将棋はうってつけで、好きな算数の問題集を解くように詰将棋の「問題」を解いた。
小学6年のとき、ある詰将棋作家の作品集を手にする。熱が上がっても、入院先の医師に止められても、詰将棋を作らずにいられないなどと随筆につづられていた。詰将棋を作る人がいることに初めて気づき、衝撃を受けた。病をおしてでも作りたいという思いにも。
掲載されていた創作法を参考に挑戦したが、小学生のうちはまともに作ることができず、「詰将棋とは何かが分かっていないレベルだった」と振り返る。比して藤井七冠の小学生時代の発表作は「すごいです。すでに『この世界で何十年もやってます』みたいな大人の作り方。まるで若さがなく、子供時代を飛び越してしまったのかと不思議で仕方ない」と笑う。
盤上にずらりと並んでいた駒が煙のように次々と消えていくテクニックなど、「芸術のパズル」ともいわれる詰将棋には、音楽や絵画のように鑑賞する楽しみもある。若島さんにとって詰将棋は「作品」になった。
詰将棋の専門誌に作品を発表し続ける一方、中高時代の若島さんは我を忘れて数学の問題を解くような「数学オタク」。就いた仕事を考えると信じられないが、文学とはまったく無縁で英語が一番苦手だったといい、数学者になることを夢見て京都大理学部に入学した。
小説を読む面白さに目覚めたのは、一般教養の文学の授業で使われた黒人文学の長編英書を読破したのがきっかけだ。「視界が開けた」という。そこから手当たり次第に英語の小説を読むようになった。理学部を卒業して定時制高校で数学教師を3年間務めた後、京大の英文科に舞い戻った。
研究の専門であるナボコフは「ロリータ」などで知られる20世紀を代表する作家の一人。ロシア語と英語を自在に操り、「言葉の魔術師」と呼ばれた。「ナボコフがチェス・プロブレムの作家だと知り、相性が合うのではと直感が働いた。でも、チェス・プロブレムの作品集ははっきり言って三流以下でした」と手厳しい。
一方で、小説は当初、面白さがわからず首をかしげていたが、あるときから憑かれたように全作品を読み通した。その体験を「世界がナボコフ色に染まっていく」と表現する。「ナボコフの目を通して世界が見えてくるというか…。要はナボコフ用の度の強い眼鏡をかけているようなもので、ナボコフ以外の小説もはっきり見えて『なるほど』と理解できるようになることがある。当然その反対もあるが、ナボコフに小説の読み方を教えられたと思っている」
詰将棋とナボコフ。現在の若島さんを形作るのに欠かせない大駒である。
ジャンルを超越した才人、若島さんはこれまで名刺を持ったことがほぼないという。では、自己を規定するものは何かと問うと、間をおかずに詰将棋作家だと返ってきた。「そんな商売はないからです。虚業というのがいい」といたずらっぽく笑う。
「詰将棋作家だったら、将棋になおせばプロの八段ぐらい(の力量が)あるのでは」と言うが、詰将棋界でその名を知らぬ人はいないレジェンドは間違いなく「永世名人」だろう。
ちなみに他の自己分析は、英文学者ならプロ入りとなる四段、翻訳家はプロ棋士養成機関「奨励会」の有段者、チェス・プロブレム作家はアマチュア三〜四段ぐらいと想定する。
子供の頃から詰将棋を作り始め、膨大な時間を費やしてきた。世界大会で出会ったチェス・プロブレムの一流作家は亡くなる直前まで作品を創作し続けたといい、自分もそうありたいと思う。「わが子」とたとえる詰将棋の創作は、一生かけても惜しくない営みなのだ。
それほどの面白さはどこにあるのか。将棋と同じ盤と駒、ルールを用いながら、「将棋とは違う部分、実戦ではめったに出現しないような独自の世界を作り上げるところ」と若島さんは強調する。実戦からかけ離れ、独立したその世界にこそ、詰将棋作家それぞれの創作の美意識が表現される。
若島さんは詰将棋を作る際、将棋盤や駒を使わない。それらは自宅にあるものの、夜中の駒音が家族に迷惑をかけることなどから、もう何十年も頭の中にセットされた盤の上で駒を動かしているのだという。そうやってできたものを図面用紙に書きとめる。
一番楽しいのは、何と言っても詰将棋のアイデアを考えているときだ。その楽しさは、ナボコフの作品に考えをめぐらせているときも同じだという。
「こういうことが実現したらいいなあ」と頭に思い描き、それが盤上に実現するように駒を配置する。「達成できる可能性が50%ぐらいあると、最初からやる気がしない。1%ぐらいだと、すごくやる気が出る」。第一人者にとっては実現可能性が少ないほど、創作意欲が刺激されるのだ。そのときの頭の中をこう描写する。
「目的地はあるが、どこにも道はなく、荒野が広がっている。どうすればたどりつけるのかと、しばらく考えていると、本当に不思議ですが、道が見えてくる。これが好きなんです」
自身が創設し、実行委員長を退いた後の詰将棋解答選手権で優勝するなど、若島さんが詰将棋を解くのが速いのは「作家の作意がわかるから」だ。それは、子供の頃から詰将棋を創作し、同選手権5連覇の実績がある藤井七冠にもあてはまるだろうという。
若島さんには詰将棋に関する著書が多く、藤井七冠が帯文を寄せた作品集もある。今夏出版された「詰将棋の誕生 『詰むや詰まざるや』を読み解く」(平凡社)は、詰将棋を「芸術」に高めた江戸時代の二大棋書について論じた専門書だ。
古典詰将棋の作品集の双璧、七世名人・伊藤宗看の「将棋無双」(1734年)と、その弟である伊藤看寿の「将棋図巧」(1755年)。若島さんの論考と、詰将棋作家・上田吉一さんとの対談を収録した300ページを超える大著だが、「第一人者の手にかかると、何百年も前の人が何を考えていたか手にとるように読み解けてしまう推理小説のようなスリリングさ」(担当編集者)が評判となり、増刷が決まった。
詰将棋が誕生したのは江戸時代初期で、実戦の終盤を切り取ったようなものだったという。現代の詰将棋作家は、数百年にわたって先人たちが積み上げてきた知識をもとに創作できる環境がある。だが、宗看や看寿は過去の遺産がほとんどないところから詰将棋創作の芸術性を掘り下げた。作品のオリジナリティーという源流がそこにある。
「彼らは、自分たちが指した将棋の棋譜は後世にほとんど残らず、詰将棋の作品こそが残ると考えていたのでは」と若島さんは語る。実際、両作品集は今も鑑賞される詰将棋史に輝く記念碑的な存在だ。そして今回、一局の詰将棋を創作するように異例の専門書を作ろうと考えたのは、自分の中にも「のちに続く人たちの参考になるものを残したいという気持ちがある」からだという。
湖底に眠る美しい真珠−。同書の中で、若島さんは詰将棋のイメージをそう描く。真珠のきらめきにたどりつく道筋を、今日も頭の中で追い求める。
1925年、京都市生まれ。詰将棋作家、英文学者、翻訳家、チェス・プロブレム作家。京都大名誉教授。詰将棋の二大賞である塚田賞を7回、看寿賞を10回受賞。2004年に詰将棋解答選手権を創設。将棋の観戦記も手がける。チェス・プロブレムでは解答競技インターナショナル・マスターの称号を持つ。著書に「詰将棋の誕生」、「盤上のフロンティア」、「乱視読者の帰還」(本格ミステリ大賞受賞)、「乱視読者の英米短篇講義」(読売文学賞受賞)など、訳書にナボコフの「ロリータ」「新訳版アーダ」など多数。
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