社長夫人が見てきた「はてな」:連載:変な会社で働く変な人(1)(3/3 ページ)
「うまくいくはずがない」――5年前、彼氏が発案した「人力検索はてな」は、儲かると思えなかった。でも、彼の目の輝きを信じた。「鳴かず飛ばず」の創業から4年。はてなと社長を支えた、社長夫人の記録。
背に腹は代えられない。淳也さんはとうとう、受託開発を決断する。2001年1月、「はてな開発部門」を新設。受託の仕事は次々に入り、はてなの窮状を救った。同5月、新サービス「はてなアンテナ」をリリース。経営は安定し、ユーザーは徐々に増えてきた。
受託に新サービスにと多忙を極める淳也さんと対照的に、令子さんは手持ち無沙汰だった。ユーザーサポートと広報、経理、を担当していたが、サポートメールはほとんど来ないし、事務作業もたかが知れている。昼ごろに出社して、夕方に帰る毎日。プログラミングもできず、手伝えることがない。「自分は、本当にここにいていいんだろうか。ただ偶然、近藤淳也の奥さんになったからここにいるだけだ」――不安で、申し訳なかった。
転機は「はてなダイアリー」だった。
「『いわし』に書きなさい」
「小学生の頃から、ホームページを作っていたんです」。その名も「令子新聞」。A4レポート用紙の上半分にニュースや標語を書き、下半分に「みんなの掲示板」という余白を作り、鉛筆をぶら下げて洗面所に張った。「おうちで読ませるから、“ホーム”ページ」
淳也さんに個人サイトを作ってもらい、日記を更新したこともある。「まるで水を得た魚のように、ネットの海を泳ぎまくりました」。何かを表現し、人と共有するのが好きだった。
はてなでも同じような場を作りたくて、「スタッフ日記を書かせてほしい」と淳也さんに申し出た。返答は「『いわし』に書きなさい」。人力検索の補足用ツリー掲示板「いわし」に、1年半、日記を綴った。肩身が狭かった。
2003年1月。はてなダイアリーのサービスインと同時に、スタッフ日記も「はてなダイアリー」に昇格。令子さんは再び、ネットの海を泳ぎ始めた。
ハンドルネームは本名をもじった「れいこん」。名前や顔写真、悩みから飼い犬の体重まで日記で公開する。「ネット上のコミュニケーションは顔が見えない」――そんなイメージを払拭したいという。淳也さんとメールで知り合えたのも、ネットの向こうにいるリアルへの信頼感があったからと思うから。
コンプレックスだったPCへの苦手意識は武器に変わった。人力検索やアンテナのユーザーはネットに慣れた人ばかりだったが、ダイアリーユーザーの多くが初心者。PCが苦手な令子さんにしか答えられない問い合わせメールが、続々と届くようになった。
ダイアリーは大ヒットし、瞬く間に万単位のユーザーを獲得。折から始まったブログブームの先駆けと目され、はるばる東京から取材に来るメディアも現れた。はてなの名は業界にとどろき、受託開発に頼らなくてもやっていける状態に。2004年4月、はてなは東京に移転。スタッフは10人に増えた。
「自分でWebサイトも作れないし、プリンタもつなげない。スキルがない分、他のことで補いたい」と令子さんは言う。飲み物の出し方を工夫したり、得意の料理でお客さんやスタッフをもてなしたり――唯一の女性として、ITが苦手な人間として、自分じゃないとできないことを探す。「来た人が『悪い会社じゃないな』と思ってくれるようにしたい」
時には嫌われ役も引き受ける。「社長が叱ったら、場が凍ってしまうから」、社長の代わりにスタッフを叱ることもある。不採用の入社希望者に、通知を送るのも令子さんの役割。相手の気持ちを思うとつらいけれど、社長夫人だからこそ角を立てずに済むと、懸命に割り切る。
「吉祥寺で見つけたんです」――そう言って見せてくれた胸元のペンダント。はてなマークのシルバーに、愛情と覚悟と女性らしさが輝いていた。
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「インターネットは、人が本来持っている力を飛躍的に伸ばせる可能性を持った未完成の道具。この道具を進化させ、人間の生活を豊かにしたい」――そんな思いが「はてな」を生んだ。
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