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「お金がありすぎて失敗した」――「Twitter」創設者の“再チャレンジ”ティム・オライリー氏と対談(1/2 ページ)

「Twitter」の共同創設者が来日し、Web2.0提唱者のオライリー氏と対談。華々しい成功の陰には、会社が存亡の危機に直面するほどの大きな失敗もあったという。Twitterの狙いも語った。

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 Twitter共同創業者のエバン・ウィリアムス氏(35)は、ネットサービス開発者として、起業家として、失敗と成功を繰り返してきた。

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ウィリアムス氏

 成功は華々しかった。ブログツールの先駆けといわれる「Blogger」を開発し、Googleに売却すると同時にGoogleに転職。退職後に仲間と創設した「Twitter」は、SNSやブログに代わる新しいコミュニケーションツールとして、世界から脚光を浴びる――

 その陰には大きな失敗もあった。Bloggerはネットバブル後の不況にあえぎ、資金繰りに行き詰まって一時期、社員全員を解雇。Google退職後に最初に手がけたサービス「Odeo」は、「資金を集めすぎて失敗した」と振り返る。

 都内で開かれた「Web2.0 Expo」で11月16日、ウィリアムス氏と、Web2.0提唱者として知られるティム・オライリー氏が対談。BloggerからTwitterまでの道のりを振り返った。ウィリアムス氏は9カ月間オライリー氏の下で働いていたこともあり、うち解けた雰囲気で話が弾んだ。

Bloggerがくぐり抜けた「暗黒の時代」

 最初の起業は1993年、大学中退後の20〜21歳のころ。「当時は『インターネットとは何か』から説明しなくてはならない時代だった」といい、ネブラスカ州でネット企業を作って3〜4年ほど運営したが「ネットの最先端を知りたい」とカリフォルニア州に移住。オライリー氏の会社に入社した。

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ジーパン姿のウィリアムス氏に「えらくカジュアルな格好だね」とオライリー氏が突っ込むと、すかさず「これでも正装。普段はもっと崩れてる」

 だが9カ月で辞めた。オライリー氏によると「『なんでこの方法でやらないのか』と常に疑問をぶつけてくる“いい社員”だったが」が、「権限のある人に従って、誰かのために働くというのが嫌だった」とウィリアムス氏は振り返る。

 1999年にベンチャー企業Pyra Labsを設立し、「Blogger」を開発。オライリー氏も出資していた。だがネットバブル崩壊が直撃し、資金繰りに行き詰まる。「『暗黒の時代』だった。2001年末には、7人いた社員は全員解雇しなくてはならなかったが、Bloggerと会社だけは何とか残った」(ウィリアムス氏)

 Bloggerは成長を続け、100万人以上のユーザーを獲得。2003年2月に、会社ごとGoogleに売却した。ウィリアムス氏もGoogleに転職。4年ほどで辞めた。

 「当時Googleの社員は800人程度。今よりは小さな会社だったが学べることは多く、面白かった」――それでも辞めたのは「Bloggerが、自分なしでも生き残れるくらいに十分に大きくなったと思った」から。退職後はポッドキャスティングサービス「Odeo」に従事。同名のベンチャー企業を運営した。

 「Odeoはいい教訓だった」――それは痛烈な失敗体験であり、Twitterを生んだ母体でもあった。

資金を集めすぎて失敗した

 「自分がやっているサービスが何なのかをきちんと理解する前に、資金を集めすぎてしまった」――ウィリアムス氏はOdeoの敗因をこう分析する。「Bloggerの時と逆だ」。オライリー氏は指摘する。

 ウィリアムス氏は言う。「間違った場所にフォーカスを置いてしまった」と。「プロダクトを作っている以上、ユーザー体験の向上に最も力を入れるべきだった。だがお金があったせいで、プロダクトそのものより、会社を成長させることに注力してしまった」

 ユーザー目線を忘れ、ビジネスに重点を置いたOdeoの事業は、うまくいかなかった。申し訳なく思ったウィリアムス氏は投資家に謝罪し、株式を買い戻したという。「その後1年半やってみたがうまくいかず、やっぱり『違う』と思った。資金も残っていたが、やめることにした」(ウィリアムス氏)

 だがその間に次の種が生まれていた。Odeo内の1サービスとして開発していたTwitterだ。「Bloggerにちょっと似ていた。クールだと思っていたし、自分たちが欲しくて作った」

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