「マイルドヤンキー」論への違和感 “再発見”する東京の視線と、大きな物語なき後のなにか(5/5 ページ)
大阪で起きた「ボンタン狩り」が話題になりもする2014年、注目を集めるワードが「マイルドヤンキー」。だがこの言葉に作家の堀田純司さんは違和感を表明する。隠然たる「日本のリアル」を東京の視線が勝手に見失い、勝手に再発見した気になっているだけではないか。
私はこの点において、「ヤンキー」がもはや死語になりつつあり、「DQN(ドキュンと読む)」という言葉にほぼ置き換えられつつある状況に、注目したほうがよいのではないかと思っている。
なぜ新しい言葉が必要だったのだろう。ヤンキーとDQNはなにが違うのだろうか。その差分はどこにあるのだろう。
私はある小説家、同業者から“天才”と呼ばれる東京都足立区出身の作家にそれを訊いてみたことがある。
彼の答えは「かつてのヤンキーは、国、会社、学校など“大きな物語”への反逆者というアイデンティティが、建前にしろあった。しかし大きな物語が崩壊した現代では、もはや反社会的な人物は、自己の欲望を抑制できない人間でしかない。そうした層を指す用語が新たに必要になった」ということだった。
なるほどである。かつてヤンキー文化は、矢沢永吉さんの自伝のタイトルにもなったように、「なりあがり」を成功のモデルとした。なぜかというと、ヤンキー文化というものは「いい学校を出て、いい会社に就職すれば一生安泰」という“大きな物語”の人生モデルからドロップアウトした層こそが担い手であったために、独自のモデルを掲げる必要があったのである。
しかし“大きな物語”は機能を停止してしまった。ヤンキーも既存社会へのアンチテーゼという役割を失い、現代の不良は単なるDQNへと転落していったのである。
私は、これからの日本社会を待ち構えるリアルは、マイルドな保守層の台頭というよりも、市場原理主義の荒涼と伝統的な土俗が結びついたDQNの世界と、ますますきれいごとに塗りつぶされる一方で、そこから少しでも踏み外すとめちゃくちゃに叩かれる「おりこうさん」の社会。この二極化が想像以上の速さで進行し、格差がどんどん拡大していく。そうした姿ではないかと思っている。
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