「ネット」とともに生きてきて思うこと 願っていたのはこんな世界なのか?(2/2 ページ)
パソコン通信から現在のSNSへと、何がどう変わってきたか、小寺信良さんが述懐する。
「ヒトの話」に正確さは必要か
以前は少し距離を置いていたTwitterも、最近は少しマメに見るようになった。仕事の合間にFacebookを覗(のぞ)くことも、多くなっている。友人や仕事関係で飲みに行くという機会もほとんどなくなり、ミーティングやイベントもオンラインとなり、リアルで人と会ったり、ライブで話したりという機会が減退した今、ネット上の人の会話を覗き見するだけでも、人と話をした気になれる。
孤独を紛らすコミュニケーションに必要なのは、多愛のない話で十分だ。確固たるエビデンスを求めたり、一言一句正確な言葉の使い方は期待していない。「しょせんヒトの話」とはもともと不正確なものなのに、いつの間にか文字化するというだけで正確さを求められるようになった。
まあ、気持ちは分かる。リアルな人の話は、その場の流れで適当なことを言い、空中に消えてなくなるだけだが、書き込みはログとして半永久的に残る。後で見た人は「その場の流れ」を知らないので、アレ? ということになる。
だが、嘘とジョークの区別が付けられない、「許さない人々」がSNSをパトロールし、不正確な発言を問い詰めて謝らせる世界が、われわれの望むコミュニケーションの形だったのだろうか。
筆者はSnapchatやSNOW、Instagramのストーリーズのような、時間で消えるサービスの良さが理解できなかった。「後で見る人が困るじゃん」という、リアルタイムで見られないことが常態化していたパソコン通信時代の考え方が抜けないのだろう。
だが今、許さない人々のパトロールを逃れるために、クローズドなメッセージングサービスや、消えるSNSを使う人の気持ちも分かる気がする。「しょせんヒトの話」をネット上で再現するのは、実は仕組み的には難しい話だったのだ。
本来なら筆者も、Twitterですげえ適当なことばっかり書き込みたい。だがフォロワーが1万数千人もいると、「影響力が大きい」のだそうである。だがその影響力は、気が付いたらフォロワーが増えてたというだけで、無理やり持たされているものだ。
バカ話をするなら、勝手知ったる身内だけに限る。こうしてオープンだったインターネットは、また少しずつブロックを積んで、閉じていくことになる。
かつてパソコン通信時代、われわれはより多くの人に伝える手段が欲しいと願ったが、融通も機転も利かない人にまで伝わるとは想像していなかったようだ。一度便利さを知ってしまった世界は、元には戻らないというのが定説だが、ネットの世界もそうなのだろう。あの頃、不便の方が幸せだったと気が付くことは出来なかった。
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