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最後に、日本ソフトバンクに出版事業部があった時代について話そうCloseBox(1/2 ページ)

最終回です。1990年代あたりを雑に語ります。

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 この連載コラムもこれが最終回となるので、社内では現役最年長の編集者として、自分が経験してきたコンピュータ雑誌について語ろうと思う。

 筆者はこの9月で63歳。1967年のビートルズのアルバム「Sgt. Peppers Lonely Hearts Club Band」でポール・マッカートニーが歌った曲の年齢まであと1年だ。ヴィーラ、チャック、デイブという名前ではないが、孫も2人生まれた。

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Sgt. Peppers Lonely Hearts Club Band

 「人生が二度あれば」の欠けた湯呑み茶碗を使っている父親の年齢まで2年。60歳から定年後再雇用で編集部に所属しているが、それも8月いっぱいで終わり。次の道へ進む予定だ。仕事を終わらせるめどがついたので、週末に2人目の孫に会いに自転車で25km走ってきた。

 アイティメディアに限らず業界全体を見ても、筆者より年上のコンピュータ雑誌/メディアの編集者はほとんどが引退しており、同年代でも現役は数えるほどしかいない。記憶がまだたしかなうちに歴史的なイベントの数々を残しているのもこの世代の責務かなと思い、この連載コラムを含めて記事を書いてきたが、コンピュータ雑誌、ネットメディアについては断片的な記録しか残していなかった。

 これらを自分が記憶している範囲で書き留めることを、ここでの最後の仕事にしようと思う。何せ昔の話で、いろいろと記憶違いもあると思うので、そのあたりはコメントなどでご指摘、補足いただければと思う。これを機にご自身の思い出に花を咲かせていただければ幸いだ。

 あ、どこからかラベンダーの香りがしてきた……。

1990年、日本ソフトバンクに入り、「パソコンマガジン」に配属される

 ここは九段下。靖国神社から靖国通りをはさんでちょっと奥まったところに、日本ソフトバンク(当時はこの社名だった)がある。CGの専門誌である「PIXEL」編集部をやめ、次の行き先を探していたところ、英語に強い編集者という求人があったので応募したところ、あっさり入社が決まったのが、日本ソフトバンク。当時はソフトウェア流通と並んで出版事業を柱としており、コンピュータ雑誌を数多く出版していた。

 筆者の最初のパソコンはMZ-80K2Eなので、「Oh! MZ」という雑誌は創刊号から愛読していた。その後、X68000時代に入り、誌名が「Oh! X」に変わった後で、PIXELの時の同僚が編集部に入ったので、親しみがあったというのもある。

 なお、当時Oh! MZ・Oh! Xの主力ライターだったのが、荻窪圭さん、西川善司さんで、今もITmedia NEWSなどで活躍中だ。

 配属になったのは、「パソコンマガジン」という月刊誌。それまでの「Oh!」シリーズと違い、パソコンの機種にとらわれず、横断的に製品レビューをやっていくことをうたった雑誌。米国の出版社であるZiff-Davis Publishingの「PC Magazine」と提携していたが、同名の雑誌が日本にあったため、その名が使えず「パソコンマガジン」となっていた記憶がある。

 Ziff-Davisは製品評価を行うための巨大なラボを運営しており、そこで一括してベンチマークなどを行なっており、独自のベンチマークソフトを開発し、公開することもやっていた。

 ただ、こうしたベンチは日本では役に立たなかった。IBM PC互換機向けだったためで、その当時はPC-9801全盛期であり、DOS/Vも登場前。IBM PCで日本語が動くように拡張したAXもあったが、独自のグラフィックスカードを必要としたため一般化にはほど遠かった。編集部でもほとんど無視していたように思う。

 このパソコンマガジン時代で一番記憶に残っているのが、Windows 3.0のローンチ。β版を手に入れた編集部が、CompaqのPCにWindows 3.0をインストールして興奮していたのをよく覚えている。

 ライターさんとのやりとり電話も記憶している。体調を崩していたライターの富田倫生氏とやりとりする編集者の会話が印象的だった。富田氏は後に青空文庫を立ち上げる。ライターとしての富田氏の業績は、青空文庫でお読みいただきたい。「パソコン創世記」「青空のリスタート」。まさに創世記のパソコン業界を描いた傑作だ。

初のフルDTP週刊誌「PC WEEK」を立ち上げる

 パソコンマガジンに在籍したのは2カ月くらいで、すぐに別の編集部に異動となった。場所は出版事業部があったビルとは別の雑居ビル。実はそのビル、2番目に入った会社が一時期あったところで妙な因縁を感じた。その編集部は「PC WEEK」。パソコンマガジンと同じくZiff-Davisのメディアだがビジネス志向で、企業ユーザーのみが購読できるというサブスクリプションベースの週刊タブロイド雑誌だった。

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PC WEEKの自社広告(1993年当時)

 最大の特徴は、当時ようやく実用化に漕ぎ着けたばかりのDTPをフル導入し、内製による完全版下制作まで行うというところ。これにより、制作期間の大幅短縮を図り、最新の情報を企業ユーザーに提供できるようになった。

 Macintosh(SE/30とIIci)でQuark XPress、Aldus FreeHandを使ってテキストとグラフィックスを流し込み、Linotronicによる印画紙、フィルム出力を行い、富士写真フイルムの自動現像機で現像まで、外部に任せず自分たちでやっていた。

 それ以降、ソフトバンク出版事業部の雑誌は次々とDTP化されていくが、その先駆的存在となった。そのシステムを見せるため、孫正義社長がゲストを招いて編集部を案内する様子も頻繁に見られた。

 詳しいことは、オルタナティブブログに書いたエントリーがあるので、そこを見ていただけるとうれしい。

 Ziff-Davisはボストンに拠点があり、そこに置かれたサーバからネット経由でデータを日本側にコピーし、それを使うという、当時としては先進的な試みも実施していた。日米双方にTrailblazerという高速モデムを置いて接続し、たしかCarbon Copyというアプリで、MacのFinder的な操作で米国サーバから必要なデータを編集部のサーバにコピーしていた。使うのは主にFreeHand、Photoshopなどのグラフィックスデータと本文が入った組版データ。そこからテキストを抜き出して翻訳して掲載していた。

 孫社長が考案した自動翻訳機を発展させたシャープの自動翻訳ワークステーションを使う予定だったがまだ実用的ではなかったので、急ぎの翻訳は自分がやっていた。

 当時の編集長は編集経験が浅く、技術にも疎かった(ハードディスク内蔵PC-9801RAで一太郎をフロッピーで動かしていた)ので、その分他のスタッフががんばっていた。後にITmediaエンタープライズを率いる浅井英二副編集長、ネットランナーを創刊し世間を大いに騒がせた武本佳久氏が新卒として配属されるなど個性豊かな面々で、ビジネスユーザーを志向した切り口や速報性が現在のITmediaの根幹になっていたのは間違いないと思う。ボストンでこちらとのリエゾンをしてくれていたのは後にZDNetの基礎部分を作った磯貝一副編集長だった。

 この頃はインターネットというよりもLANビジネスが勃興した時期で、ソフトバンクはNetWareに肩入れしていた時期だったこともあり、同社CEOのレイ・ノーダ氏や、Sun Microsystemsのスコット・マクネリーCEO、Microsoft CEOに就任する前のスティーブ・バルマー氏へのインタビューなど、現在ではなかなか叶わないような重鎮との接点も頻繁にあった。もちろんそれはZiff-Davis看板雑誌の日本版だからだったからだろう。DOS/Vの勃興期でもあり、Windows NT、LAN Managerなどのネットワーク機能をテコにWindowsも徐々に実用的になっていった。

 世界的には知名度が全くなかったソフトバンクは、このZiff-Davis(Ziff Communications Company)を1994年に買収し、世界に知られるようになる。と同時に、Ziff-Davisの出版事業との提携も強まっていった。後述するMacUserの創刊前に行ったMacworld Expo/BostonでNewton MessagePadを見たが、そこに搭載されていたRISCプロセッサ「ARM」の設計会社を後にソフトバンクが買収するに至る原点はここにあったと言っていいだろう。

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