と聞いてきた。。突然“課長”と呼ばれてなんだかくすぐったいような気がした。ちょっとぶっきらぼうかな、と思ったが
「ああ、行くところがあるからね」
そう答えた。
「私も連れて行ってください。行くところって、行きつけの喫茶店のことでしょう。あのお店、一度、行ってみたかったんです」
断る理由もない僕はユウカの同行を承諾した。なぜ僕の行こうとしているところを知っているのか、着物はどうしたのか、疑問がいっぱいあったのにそれらの事はなぜか忘れてしまった。彼女といると、どうも自分のペースが保てないと思った。
店は同じように会社が早く終わったり、学校が休みでヒマなヤツラですでにいっぱいだった。僕とユウカはカウンターの席に座った。カウンターの向こう側から、
「いらっしゃい、いっちゃん!」
という元気な声とともにヒロ助が顔を出した。
「どう、今年もヒラ社員でがんばっちゃうの?」
といたずらっぽい目でそういってきたので
「なに言ってんだ! 今年から課長になったんだぞ!」それを聞きつけたのか、カウンターの下で寝ていたマスターの須藤祐一が起きあがって、
「そいつはすげえな。じゃあ、今日はオレのおごりだ!」
と店中に響くような大声で叫ぶと、またカウンターの底に沈んでいってしまった。
「祐さん、時差ボケ?」
とヒロ助に聞くと、首を横に振って
「飲み過ぎ……、だけじゃないよなあ。波乗りにいっている間に、奥さんと子どもたち実家に帰っちゃったんだって」
「ん? 帰省?」
「違うよ、分かるでしょ……」
「まずいなぁ……」
「自業自得……だよ! わたしだったらとっくに耐えらんないっ」とヒロ助は冷たく言い放った。そして、その冷たいまなざしを今度は僕の隣にいた小田島結香に向け、
「ところで、こちらの美人はど・な・た?」
と聞いてきた。会社の部下なんだけど、僕よりも遙かに有能で、パソコンもできて、といろいろ説明すると、あからさまに不機嫌そうに、
「そう、じゃ、後は二人でごゆっくり!」
といって、“おかわり!”と叫ぶ客の声を無視して、カウンターを出てしまった。
ユウカはヒロ助の行く先に視線をやりながら
「かわいい娘……」とつぶやいて微笑んだ。
翌日から地獄のような忙しい日々がはじまった。朝、出社するとまず営業のミーティング。午前中の残りの時間は開発室に戻って筆を握った。開発室、と言っても、書道をやるのに都合がいいだろうから、という理由で女子社員が休憩に使っていた和室が与えられた。逆に開発室に、と新館に用意されていた広くて明るい部屋が女子社員の休憩室になった。午後から得意先回りに出て、出先で時間を見つけては、タブレットPCを使って文字入力の作業を行った。帰社してから、開発チームから要望のあった文字を書くため、再び筆を握った。文字を書くのは苦ではなかったが、いきなりなんの脈絡もなく、いろいろな文字を書かされるのはいささかとまどう事もあった。
もちろん相変わらず、営業の仕事での失敗は続いていた。営業回りに行くのに名刺を忘れたり、得意先に大事な資料を忘れてきたり、と数えたらキリがなかった。名刺を忘れた時はユウカがすぐ近くで印刷できるところに名刺のデータを送って、得意先に着く前に用意してくれていた。資料を忘れた時は僕が忘れた事に気付く前にフォローの連絡を先方に入れておいてくれた。
ユウカの行動は予測ができず、不思議なことだらけだった。それでも、僕にとってはユウカと一緒に仕事ができるだけで幸せで、そんな不思議な事もまったく気にならなくなっていた。あの事件が起こるまでは。
いつの間にか桜の季節がやってきていた。
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